あゝ同期の桜
『あゝ同期の桜』(ああどうきのさくら)は、1967年の日本のテレビ映画及び日本映画。原作は両作とも、海軍飛行予備学生十四期会による遺稿集『あゝ同期の桜・帰らざる青春の手記』(毎日新聞社、新版光人社文庫、2009年7月)。
テレビ映画
編集あゝ同期の桜 | |
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原作 | 海軍飛行予備学生十四期会編『あゝ同期の桜・帰らざる青春の手記』 |
脚本 | スタッフの項目参照 |
ナレーター | 西村晃 |
オープニング |
「同期の桜」 ミュージカル・アカデミー、東京混声合唱団 |
製作 | |
プロデューサー |
落合兼武 加茂秀男 吉川義一 |
制作 | NET |
放送 | |
音声形式 | モノラル放送 |
放送国・地域 | 日本 |
放送期間 | 1967年4月6日 - 1967年9月28日 |
放送時間 | 木曜日20:00 - 20:56 |
放送分 | 56分 |
回数 | 26 |
特記事項: モノクロ放送 |
概要
編集肉親・恋人らに宛てた手紙などの学生の手記47編の中から話を選び、構成されている。ナレーターの西村晃は同じ第十四期海軍飛行予備学生出身者であり、脚本には同じ第十四期出身の須崎勝弥、第十三期出身の直居欽哉、監督に中村経美、関川秀雄ら直接戦争体験を持つスタッフを起用している[1]。毎週一話完結をドラマの基本スタイルとし、ナレーターの西村以外、毎回主演を含む出演者は異なっているのが特徴である。
あらすじ
編集昭和18年9月 戦争は漸く苛烈の度を加え 遂に政府は徴兵猶予撤廃の非常措置を発令、全国の 大学高等専門文化系に学ぶ 凡そ10万の学生は 学部を半ばに出陣の途に就くことになった そのうち3,000余名は 第十四期海軍飛行専修予備学生を拝命 祖国防衛の第一線に巣立っていったのである だが 戦局はすでに敗色覆い難く 尋常の戦法では 最早 戦局挽回の余地なしとして 軍は 史上無惨な体当たり攻撃を正当化する以下 戦没者399名 そのほとんどが 初陣を最後に 終戦間近の昭和20年春から夏へかけて 新、 二十余才の生涯を閉じていったのである。
放映リスト
編集スタッフ
編集映画
編集あゝ同期の桜 | |
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監督 | 中島貞夫 |
脚本 |
須崎勝彌 中島貞夫 |
原作 | 海軍飛行予備学生第十四期会編『あゝ同期の桜・かえらざる青春の手記』 |
製作 | 大川博 |
ナレーター | 山口幸生 |
出演者 |
鶴田浩二・高倉健 松方弘樹・千葉真一 夏八木勲・村井国夫 佐久間良子・藤純子 小沢昭一・三益愛子 西村晃・天知茂 |
音楽 | 鏑木創 |
撮影 | 赤塚滋 |
編集 | 神田忠男 |
製作会社 | 東映 |
配給 | 東映 |
公開 | 1967年6月3日 |
上映時間 | 107分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
配給収入 | 2億322万円[2] |
次作 | 人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊 |
概要(映画)
編集海軍飛行予備学生第十四期会編の『あゝ同期の桜・かえらざる青春の手記』を原作に、若き学徒兵の遺書・遺稿・日記・手記を完全映画化[3]。日本の敗色が濃厚となってきた太平洋戦争末期、定められた死を目前とした若者たちの苦悩と誇りに満ちた短い青春を[4]、神風特別攻撃隊の全貌とともに描かれた。本作は東映京都撮影所として初めて取り組んだ本格的な戦争映画で[5]、『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』『あゝ予科練』と並ぶ「東映戦記映画三部作」の1作目と位置付けられている[6]。
本作は日本で1967年6月3日に、併映『喜劇急行列車』と共に封切り公開されると、#テレビ映画の視聴率は下がり続けているのとは対照的に[7]、大ヒットした[8][9]。
出演者
編集※クレジットロール順に表記。
スタッフ (映画)
編集※クレジット順に表記。
- 製作 - 大川博
- 企画 - 岡田茂・俊藤浩滋・秋元隆夫
- 原作 - 海軍飛行予備学生第十四期会編『あゝ同期の桜・帰らざる青春の手記』(毎日新聞社 刊)
- 脚本 - 須崎勝彌・中島貞夫
- 撮影 - 赤塚滋
- 照明 - 金子凱美
- 録音 - 荒川輝彦
- 美術 - 鈴木孝俊
- 音楽 - 鏑木創
- 編集 - 神田忠男
- 助監督 – 牧口雄二
- 記録 – 矢部はつ子
- 装置 – 稲田源兵衛
- 装飾 – 松原邦四郎
- 美粧 - 佐々木義一
- 結髪 – 妹尾茂子
- 衣裳 – 森護
- 合成 – 松本春吉
- 進行主任 - 杉本直幸
- 企画助手 – 佐藤雅夫
- 挿入歌 - コロムビアレコード、作詞:西條八十、唄:松方弘樹
- 協力 - 毎日新聞社、嵐山高雄パークウェイ、鹿児島県出水市
- 製作 – 東映
製作
編集経緯
編集中島貞夫は十四期生・和田稔の妹・若葉と友達で[10]、高校時代に和田の手紙を読んでいた[11]。のちに原作が出版され、中島は改めて読み直し、是非とも撮りたいと心に期す[11][12]。映画化で俊藤浩滋とも合意するが[12][13]、任侠映画の延長上とする俊藤に対し[10]、手紙や遺稿を読んでいる中島は特別攻撃隊による死というもの、そこへ追い込んだ大きな力、そして死を目前に感じながら特攻隊員がどのように葛藤していたかを真正面から見つめたかった[14]。骨子は昭和11年(1936年)、明治神宮外苑の学徒出陣から始まり、海兵団へ配属・訓練風景と彼らの友情を描き、特攻をする流れとした[15]。しかし大川博ら本社は「戦争映画、特に神風特攻隊なんて今さら…[16]」「この内容ではヒットしない[17]」等々、製作に猛反対する[10][16]。俊藤は学徒出陣で徴兵された岡田茂 (東映) なら、この題材に思い入れがあるはずと考え[注釈 1]、大川への口添えを頼み、ようやく承認された[10]。中島は「『岡田を乗せちゃおう』と言う俊藤さんの政治力は巧みなんです[10]」と振り返っている。
脚本
編集生き残った十四期生・須崎勝彌と中島貞夫の共作で、須崎が執筆するのは十四期生の要請であった[10]。シナリオ執筆と同時進行で、中島は主役に千葉真一と松方弘樹で撮ろうと決める[18]。東映からも所属俳優を起用するよう求められており、東映京都撮影所(京撮)から松方、東映東京撮影所(東撮)から千葉が、それぞれ選ばれた[5][18][19]。神風特別攻撃隊が編成された霞ヶ浦を皮切りに鹿屋から出水まで、中島と須崎はロケーション・ハンティングで訪れ、半年以上を準備に費やし[11]、内容を肉付けしていく[18]。「戦争における死は全て惨死であり、犬死である」という中島の思いに須崎も同意し、ラストシーンは中島に一任される[20]。特攻機が敵艦に突っ込む直前にストップモーションで「その瞬間、彼らはまだ生きていた」のテロップ、再び動き、敵艦に激突せず、海へ墜落した瞬間に「この時から僅か4カ月、戦争は終わった」というテロップのラストに、須崎は「それはいいね」と賛同した[14][17]。
配役
編集千葉真一と中島貞夫は1959年入社の同期ながら、東撮の千葉に京撮の中島と拠点を異にしていたが、初めて一緒に仕事をした[21]。中島は「若手俳優たちは陽気でキラキラした印象の者ばかりだったけど、千葉くんはちょっと異質でね。実直な青年らしい朴訥さと、どこか暗い情念を感じさせるところが、彼の魅力だと思う[19]」「僚友の妹に淡い恋をする特攻隊員を演じていて、出撃前に彼女への未練を断ち切り、海辺に独りで『ダンチョネ節』を歌う姿が良かった[21]」と評している。千葉の父親は大刀洗町に在った陸軍飛行戦隊に所属する軍人で[22]、零式二号艦上戦闘機などのテストパイロットと建造したばかりの航空母艦へ初着艦を成功させていた[23]。大刀洗町には陸軍飛行学校が設置され、終戦間近には特別攻撃隊の基地にもなり、知覧町に存在した特攻基地は大刀洗の分校である[22]。千葉は「規則違反だが、父親の操縦する飛行機に乗せてもらった」と述べており[24]、本作について「夢にまで特攻隊が出てきた[25]」と答えている。
製作を担う京撮は時代劇を主とし、主演級のスター俳優は勿論のこと、脇役陣や大部屋俳優たちの中にも特攻隊員を演ずるに相応しい若い俳優がほとんどいなかった[5][19]。故に松方弘樹と千葉真一以外の特攻隊員は、オーディションで選ぶこととなる[5][19]。中島貞夫は東京大学在学中に仲間と「東大ギリシア悲劇研究会」を立ち上げ[26]、演劇をやっていたことも幸いし、付き合いのある幾つかの劇団に候補者を推薦してもらい、それぞれ面接を行った[5]。あの時代を生きた若者の雰囲気を持っていることを基本条件とし、突っ込んだ芝居を必要とする役には、それぞれに適うキャラクターを持つ俳優を選んだ[5]。中島は抜擢した俳優たちの演技や人物像を次のように述べている。
「夏八木勲くんは妻子を残して出撃していく少尉で、その別れのシーンには情感を示し、出撃したがエンジン不調で基地へ帰還し、生き残り苦悩する姿と、見せ場の多い難しい役だが、野性的な外見とは裏腹に、その内面を繊細に演じてくれた[5]」。「蟹江敬三くんは、出会った時から独特の個性を感じた。軍国主義賛美派で勇ましく強がるが、その底辺に軽薄で危うさを感じさせるキャラを彼特有の表現で見せ、後に曲者役者として活躍する片鱗が見られた[27]」。蟹江が演じたキャラと好対照で、癖のない好青年役で選ばれたのが村井国夫[27]。宮土尚治もオーディションで採用された[15]。その他の出演者では、赤ちゃんを抱いてモンペを着た妻に佐久間良子が扮し、夫を見送る哀れさと家族を引き裂く戦争への怒りを描いている[28]。山本麟一は京撮の時代劇俳優とは違った雰囲気を持ち、命令調でしゃべる軍人役に向いているという理由で起用された[29]。
出撃組の指揮官役である鶴田浩二は戦時中、大井海軍航空隊の整備兵で特攻機を見送る立場だった[注釈 2]。特攻を散華とみなす鶴田と[8][15]、大東亜戦争で父親を失っていた中島貞夫では[15]、先の戦争に対する認識が異なるために撮影の随所で対立している[15]。一方、特攻基地で隊員たちの世話をする補充兵役の西村晃が特攻機を見送る時の表情に、中島は「演技以上のものを感じた」と述懐[30]。戦時中に第十四期海軍飛行予備学生であった西村は、特攻出撃で沖縄方面へ飛び立つが、機体不備で基地へ引き返したおかげで、九死に一生を得ていた[30]。すんでのところで命拾いをした西村は「特攻機から降りた直後に失禁した」と生々しい描写で語っている[30]。軍医役の天知茂は本作のテーマに深く関わる位置づけだが、試写で大川博ら上層部の圧力で、天知の出演シーンは大幅にカットされた[8][31]。中島は「この悔しさは今でも忘れられない」と無念がっている[32]。 (⇒ 詳細は#試写を参照)
松方弘樹と千葉真一を中心にした特攻隊員たちが主役であって[21][33]、十四期生の群像劇を描くはずが[15]、俊藤浩滋の傘下である鶴田浩二・高倉健が出演するオールスターキャストに変更されてしまう[18]。須崎勝彌は「東映はスターの出番に割り振りがあり、高倉・鶴田がキャスティングされることでシナリオにないシーンを作ることになり、そのため映画の出来が明らかに悪くなった[34]」と述べている[35]。中島貞夫も「脚本がほぼ出来上がったくらいに、鶴田が出るぞ、高倉も入れるぞ、となった。十四期生の物語なのに彼らが脇役で出演が決まり、それぞれ見せ場を作らなあいかんとなり、演出がしんどくなった[35]」と振り返っている。 (⇒ 詳細は#撮影を参照)
美術
編集撮影用なので、飛行せずに自走しない九七式艦上攻撃機は、装置の稲田源兵衛が映画化を見越して、設計図からこつこつと作り始めていた[33]。戦時中に整備兵だった稲田は九七艦攻を知っており、期間を随分と費やしたが、降着装置の車輪だけは上手く造れない[33]。そのため自衛隊から練習機の車輪を借りて取り付け、計三機を完成させ、ようやく福知山駐屯地が管轄する長田野演習場の滑走路まで運び入れた[33]。離陸前の自走シーンは貨物自動車で牽引するという、危険極まりない撮影を行っている[33]。
撮影
編集ロケーション撮影として、白鳥礼子と白鳥貞子が歩きながら白鳥少尉や半沢少尉のことを話すシーンは山崎駅の線路と踏切の際にて[36]、特攻隊の出撃シーンは長田野演習場[33][37]、出水市で行われている。
長田野町でのロケ前夜、高倉健は中島貞夫を呼び出し、「どうしても自分だけが残るわけにはいかない。彼らと共に出撃させてほしい」と要求し、大いに困らせてしまう[38][39]。高倉は鶴田浩二と同様に十四期生を指導・訓練するが出撃を見守る佐官で、居残る高倉の見せ場として滑走路を移動する九七式艦上攻撃機に、「俺も行かせてくれー」と叫びながら追いかける海軍飛行予科練習生(宮土尚治)を、抱きつき制するというシーンが用意されていた[38][39]。高倉の言う通りにすると、あたかも鶴田と高倉で最後の殴り込みという流行りの任侠映画のような展開になってしまい、中島は「十四期生の群像劇を描くというテーマに反する」と固持[15]。「明け方までコーヒーと煙草で延々と話し合ったよ。健ちゃんは自分も特攻隊として飛び立っていきたいと言う。いや、飛び立つ者もつらいが、部隊に残る者もつらい。それを健ちゃんにやってほしいと何度も説得した[40]」と中島は諭し続けるが[8]、高倉は最後まで納得せず[39]、夜が明け[38]、結局はシナリオ通りに撮影が行われた[39]。
試写
編集原作だけでなく、基地を爆撃されて多くの同僚を失った者の日記に執筆されている厭戦や戦争否定を盛り込んだ、かなり長尺の本作を試写するが、元から消極的な大川博に、戦争経験者である製作部長からも「これは左翼の映画じゃないか」と言われてしまう[41]。上層部の批判を受け、忖度した中島貞夫は不本意ながらカットしていき、9,000フィートまでにした[31]。改めて瀬島龍三など出征していた者や戦争体験者を招待した試写会が特別に催されるものの、不評に変わりはない[31]。「このままでは封切れない」と判断した大川は、十数分間の具体的なカットするシーンを示し[8]、対応するよう命ずる[8][31]。中島は数か所のカットには従うが、ラストシーンのカットは頑強に拒否[8][31]。岡田茂と俊藤浩滋が「大川社長を説得するには妥協案が必要」と間に入るものの、埒が明かない[8][31]。岡田は「冒頭に『この一篇を太平洋戦争に散った若き英霊に捧ぐ』というタイトルを表記する」という条件で中島を諭し、大川にも具申し、やっとのことで興行が承認された[8][42]。中島はラストシーンを死守したものの、ズタズタにカットされた本作を見る気も失せ、大ヒットしても全く嬉しくなかったと述べている[8][9]。
縁の地・手記
編集- 大円院 - 大円院墓地に第十四期海軍飛行予備学生戦没学徒慰霊碑「あゝ同期の桜之塔」がある。
- 雲ながるる果てに 戦歿飛行予備学生の手記
参考文献
編集- 中島貞夫 著「第四章 任侠映画と叛任侠映画 『あゝ同期の桜』(67)」、河野眞吾 編『遊撃の美学 映画監督中島貞夫㊤』(第1刷)ワイズ出版、2014年10月20日。ISBN 4898302831。OCLC 895768292。
- 中島貞夫、大森俊次『中島貞夫監督 映画人生60年を語る』(初版)かもがわ出版、2023年7月19日。ISBN 478031285X。OCLC 1404808442。
脚注
編集注釈
編集- ^ 1950年に『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』を岡田は製作していた[10]。
- ^ 詳細は鶴田浩二#「特攻崩れ」の虚実を参照。
出典
編集- ^ 1967年4月6日朝日新聞朝刊テレビ欄の番組紹介記事より。
- ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)240頁
- ^ 東映チャンネル 『あゝ同期の桜』 at the Wayback Machine (archived 2022年7月2日)
- ^ 『あゝ同期の桜』 - 日本映画製作者連盟
- ^ a b c d e f g 第2章 京都で出会った俳優たち 「30 オーディションで咲いた同期の桜」、153頁。
- ^ [1] より。
- ^ 「タイムテレビ&ラジオ"同期の桜"ってどんな桜?若い視聴者の珍問に悩むNET」『週刊平凡』、平凡出版、1967年6月15日号、53頁。
- ^ a b c d e f g h i j 第1章 心に残る人と作品 「7 ラストシーンをめぐる思い」、32頁。
- ^ a b 「ラストシーンでの会社との攻防」、150 - 151頁。
- ^ a b c d e f g 「ラストシーンでの会社との攻防」、147頁。
- ^ a b c 第1章 心に残る人と作品 「7 ラストシーンをめぐる思い」、30 - 31頁。
- ^ a b 『私と東映』x 中島貞夫監督(第3回)大作・問題作・意欲作 at Archive.is (archived 2014年9月9日)
- ^ 「ラストシーンでの会社との攻防」、146 - 147頁。
- ^ a b 第1章 心に残る人と作品 「7 ラストシーンをめぐる思い」、31頁。
- ^ a b c d e f g 「オールスターの弊害」、153頁。
- ^ a b 「オールスターの弊害」、154頁。
- ^ a b 「ラストシーンでの会社との攻防」、148頁。
- ^ a b c d 「オールスターの弊害」、152頁。
- ^ a b c d 春岡勇二「中島貞夫 実直で素朴な青年らしさと情念を併せ持つように魅了され」『2021 キネマ旬報 11月上旬特別号』通巻2692号第1878号、キネマ旬報社、2021年11月1日、10頁、ASIN B09HG6KDDX。
- ^ 「ラストシーンでの会社との攻防」、147 - 148頁。
- ^ a b c 第2章 京都で出会った俳優たち 「18 居候が演技開化の機会に - 千葉真一」、117頁。
- ^ a b JJサニー千葉「気骨ある明治生まれの軍人、子供心に誇らしかった飛行機姿の親父」『千葉流 サムライへの道』(初版第1刷)ぶんか社、2010年9月20日、81 - 82頁。ISBN 4821142694。OCLC 662404923。
- ^ 「千葉真一特集号 デビュー10周年 / アクションとともに!」『近代映画』10月号臨時増刊、近代映画社、1969年10月15日、144 - 145頁。
- ^ 千葉真一「第二章 千葉真一、誕生! パイロットだった親父」『千葉真一 改め 和千永倫道』(初版第1刷)山と渓谷社、2008年5月5日、34 - 36頁。ISBN 4635340228。OCLC 227283266。
- ^ 「2月の話題映画ご案内 スターおうわさアラカルト」『月刊明星』1967年3月号、集英社、253頁。
- ^ 第1章 心に残る人と作品 「1 東映京都撮影所へ」、117頁。
- ^ a b 第2章 京都で出会った俳優たち 「30 オーディションで咲いた同期の桜」、154頁。
- ^ 第2章 京都で出会った俳優たち 「23 東映育ちのふたりのヨシコ」、132頁。
- ^ 第2章 京都で出会った俳優たち 「46 聞きもらし語り残し対談 コワイ悪役俳優たちも忘れない」、201 - 202頁。
- ^ a b c 第2章 京都で出会った俳優たち 「26 名脇役から黄門様へ」、142頁。
- ^ a b c d e f 「ラストシーンでの会社との攻防」、149頁。
- ^ 第2章 京都で出会った俳優たち 「46 聞きもらし語り残し対談 中島映画で輝いた各社スターたち」、207 - 208頁。
- ^ a b c d e f 「ラストシーンでの会社との攻防」、151頁。
- ^ 桂千穂「クローズアップトーク59 須崎勝彌」『映像芸術の原点 - Scenarioの月刊誌 シナリオ』第30巻第551号、シナリオ作家協会、1994年6月1日。
- ^ a b 「オールスターの弊害」、152 - 153頁。
- ^ 第2章 京都で出会った俳優たち 「24 東映の看板を背負って - 藤純子」、137頁。
- ^ 第2章 京都で出会った俳優たち 「11 時代劇から任侠映画へのスター交代 - 高倉健」、98頁。
- ^ a b c 「ラストシーンでの会社との攻防」、151 - 152頁。
- ^ a b c d 第2章 京都で出会った俳優たち 「11 時代劇から任侠映画へのスター交代 - 高倉健」、97頁。
- ^ “(24) 生き方が画面に出る」と自分を律し続けた”. アサ芸+. 緊急追悼連載! 高倉健 「背中の残響」. 徳間書店 (2015年2月2日). 2024年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月6日閲覧。
- ^ 「ラストシーンでの会社との攻防」、148 - 149頁。
- ^ 「ラストシーンでの会社との攻防」、150頁。
外部リンク
編集NETテレビ 木曜20:00 - 20:56 枠 | ||
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あゝ同期の桜
(1967年4月〜9月) |