イジョラ川(イジョラがわ、ロシア語: Ижора)はネヴァ川左岸の支流である。

イジョラ川
水系 ネヴァ川
延長 約80 km
流域面積 約1000 km2
河口・合流先 ネヴァ川
流域 ロシアレニングラード州
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地理

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イジョラ高地(ru)に端を発し、ロシアレニングラード州のガトチナ地区(ru)、トスノ地区(ru)サンクトペテルブルクのコルピノ区(ru)を流れる。全長およそ80km(資料により76km[1]、 83km[2]、87km[3])。流域面積およそ1000km²。川岸の大部分は草地耕地低木林が占めており、森林高木林)は存在しない。川底は石もしくは砂であり、急流地帯には巨礫が無秩序に堆積している。川岸の数箇所では、カンブリア紀粘土砂岩石灰岩層が露出している。産業排水により、水質はネヴァ川支流中でもっとも汚染された川の1つとなっている。

歴史

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イジョラ川の名は、フィン・ウゴル系民族のイジョラ人に由来する[4]。(なお、フィンランド語ではInkere川と呼ばれる。)13世紀から15世紀にかけて、イジョラ川流域はノヴゴロド公国の行政区画の1つであるヴォヂ州(ru)に含まれていた。1240年7月15日、比較的少数のドルジーナ隊、ノヴゴロド兵、ラドガ兵を率いたノヴゴロド公アレクサンドルが、イジョラ川河口(ネヴァ川に流入)に陣を構えたスウェーデン軍を奇襲攻撃によって打ち破った。いわゆるネヴァ川の戦いである。

『ピスツォヴァヤ・クニーガ』[注 1]に記載された1500年の統計によれば、イジョラ川沿いには62の村(село / セロ)があった。17世紀初頭、イジョラ川地域はスウェーデンに占拠され、その地図上にはIngris (Ischora)と記載されていた[6]。18世紀初頭の大北方戦争の後、同地は帝政ロシアに返還された。

18世紀初頭、イジョラ川に多数の堰が建設され、集積した水は、イジョラ工場(ru)の前身となった製材所で用いられた。19世紀初頭、モスクワへの道路(現M10幹線道路)と河川の交点にはヤム(ru)(宿場[7]、郵便局)が置かれた。同地は現ヤム=イジョラ(ru)という村落(Деревня / デレヴニャ)になっている。

大祖国戦争第二次世界大戦)中の1941年8月末から1944年1月にかけては前線地帯の1つとなっていた。

脚注

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注釈

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  1. ^ 「ピスツォヴァヤ・クニーガ」はロシア語: Писцовая книгаの転写による。「Писец(ru)(課税財産台帳吏[5])の書」の意。)

出典

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  1. ^ КОМПЛЕКСНОЕ ЭКОЛОГИЧЕСКОЕ ИССЛЕДОВАНИЕ РЕКИ ИЖОРЫ
  2. ^ Река Ижора
  3. ^ Река «Ижора»
  4. ^ Ижора — это не только река
  5. ^ 井桁貞義『コンサイス露和辞典』p707
  6. ^ maps/ingermanland/1676
  7. ^ 井桁貞義『コンサイス露和辞典』p1312

参考文献

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  • 井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年
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