烏天狗

伝説上の生物
カラス天狗から転送)

烏天狗(からすてんぐ)は、大天狗と同じく山伏装束で、のようなを持ったをしており、自在に飛翔することが可能だとされる天狗。青天狗[1]、小天狗とも呼ばれる。烏と名前がついているが、猛禽類と似た羽毛に覆われているものが多い[注 1]

烏天狗像(鎌倉市建長寺半僧坊)
烏天狗像(袋井市可睡斎
烏天狗像(28x25x58cm)

概要

編集

剣術に秀で、鞍馬山の烏天狗は幼少の牛若丸に剣を教えたともいわれている。また、神通力にも秀で、昔は都まで降りてきて猛威を振るったともされる。中世以降の日本では、天狗といえば猛禽類の姿の天狗のことを指し、鼻の高い天狗は、近世に入ってから主流となったものである[7]

絵画では、平安時代末期の上皇崇徳院が讃岐に流され怨霊となって現れる場面で、烏天狗に似た姿で描かれることが多い(『椿説弓張月』など)。

和歌山県御坊市では、烏天狗のものとされるミイラ厨子に入れられて保存されている。江戸時代から明治時代にかけ、修験者たちがこれを担ぎ、利益を説きながら諸国を回ったといわれる[8]。ただしこれは、2007年に保存事業の一環として行われた調査の際、トンビとみられる鳥の骨と粘土で作られた人造物であることが判明している[9]。もっとも、天狗のミイラに関しては科学鑑定がなされる以前にも懐疑的な意見があり、平賀源内の「天狗髑髏鑑定縁起」ではそもそも不老不死とされる天狗の骨がなぜあるのだという意見を問う者もあったということが記されている。

伝承

編集

末広昌雄の「伊予路の天狗噺」に以下の様な話が見られる[7]愛媛県西条のある人が子供を連れて石槌山に登った際に、わずかに目を離した隙に子供が天狗にさらわれてしまった[7]。散々探したが見つからず、やむなく家に帰ると、子供が先に帰って来ていた[7]。子供の話によれば、山頂の祠の裏で小便をしていたら真っ黒い顔の大男が来て、「こんな所で小便をしてはいけないよ。おじさんが家まで送ってあげるから目を瞑っておいで」と優しく言われ、気が付いたら家の裏庭に立っていたという[7]。これは、石槌山の烏天狗の仕業だといわれる[7]

信仰上の烏天狗

編集

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 天狗は本来の姿をしているとされることが多かったが[2]、江戸時代以降、鳥の姿をした天狗は烏天狗と呼ばれるようになった[3](古来、鳶と烏は一緒くたにされ併称される存在だった[4]。)。鳶の姿の天狗が数多く登場する『今昔物語集』が書かれた平安時代末期における「トビ」は、現在のいわゆるトビではなくノスリチョウゲンボウ等の中型猛禽類を指す言葉であり[5]、天狗を描いた絵画ではオオタカハイタカ、現在でいうトビの姿にも描かれているため、トビを含めた様々な猛禽類一般の姿でイメージされた様である[5]。また、幕末に描かれた絵画では烏に近い姿で描かれており、江戸時代後期には烏のイメージが定着していたことがうかがえる[6]

出典

編集
  1. ^ 小松和彦監修『日本怪異妖怪大事典』東京堂出版、2013年、166頁。ISBN 978-4-490-10837-8 
  2. ^ 天狗の古典文学における図像上の変化に関する一考察 : 烏天狗から鼻高天狗ヘ - 勝俣隆、長崎大学教育学部紀要、2005年
  3. ^ 小松和彦編『怪異の民俗学5 天狗と山姥』河出書房新社、2000年、423,424頁。
  4. ^ コトバンク 普及版 字通「烏鳶(うえん)」の解説
  5. ^ a b 杉原たく哉『天狗はどこから来たか』大修館書店、2007年、ISBN 978-4-469-23303-2、107-109頁。
  6. ^ 久留島元『天狗説話考』白澤社、2023年、71頁。
  7. ^ a b c d e f 村上健司編著『妖怪事典』毎日新聞社、2000年4月、119-120頁。ISBN 978-4-620-31428-0 
  8. ^ 宮本幸枝『津々浦々「お化け」生息マップ - 雪女は東京出身? 九州の河童はちょいワル? -』村上健司監修、技術評論社〈大人が楽しむ地図帳〉、2005年8月、35頁。ISBN 978-4-7741-2451-3 
  9. ^ カラスてんぐの正体見たり……実はトンビだった!?」『スポーツニッポン』2011年1月20日。オリジナルの2012年9月11日時点におけるアーカイブ。2011年9月2日閲覧。

関連項目

編集
  NODES