テレボーウリャウクライナ語: Теребовля)は、ウクライナテルノーピリ州テレヴボーウリャ地区(uk)の行政中心地となっている市(Місто)である。セレト川支流のフニズナ川(uk)に面する[3] 。市の日(uk)は7月7日。

テレボーウリャ
Теребовля
座標 : 北緯49度18分02秒 東経25度41分58秒 / 北緯49.30056度 東経25.69944度 / 49.30056; 25.69944
歴史
史料初出 1097年
マグデブルク法 1389年
1939年[1]
旧名 テレボヴリ、トレンボウリャ
行政
 ウクライナ
  テルノーピリ州の旗 テルノーピリ州
 地区 テレボーウリャ地区
 市 テレボーウリャ
市長(Міський голова) セルヒー・ポペレチヌィー(Сергій Поперечни)
地理
面積  
  市域 10,69 km2
人口
人口 (2011年01月01日現在)
  市域 13769[2]
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
市外局番 +380 3551
ナンバープレート BO / 20
位置図
テレボーウリャの位置(ウクライナ内)
テレボーウリャ
テレボーウリャ (ウクライナ)

歴史

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テレボーウリャには新石器時代期に既に人々が住んでいた。史料上の初出は『イパーチー年代記』の1097年の記述であり、その時点ではテレボヴリと呼ばれていた[4]。街はハルィチナー地方における最も古い都市の1つである[3] 。また、11世紀末よりテレボヴリ公国の首都となった。

街は1349年ポーランド王国に組み込まれた[5]1389年にはマグデブルク法を採用した。14世紀末以降になると、ポーランドの前線の要塞としてテレボーウリャ城が築かれた。ポーランド人とクリミア・タタール人オスマン・トルコとの戦闘(対タタール:1453年1498年1508年1516年。対トルコ:1675年1688年。)の中で、城は何度か破壊されている。

1594年、街はポーランドに対し反乱を起こしたウクライナ・コサックセヴェルィーン・ナルィヴァーイコによって占領された。1648年から1654年にかけてのフメリニツキーの乱では、ポーランドに対するウクライナ側の拠点の1つとなった。また、1672年から1676年にかけてのポーランド・トルコ戦争(ru)の最中の1675年にはオスマン・トルコ軍による包囲(ru)を受けている。

1772年第1次ポーランド分割からオーストリア=ハンガリー帝国の領土となった[5](なお1890年の時点で人口は3735人[3])。1918年 - 1919年には西ウクライナ人民共和国の領域となったが、同国の消滅とともに、1939年まで再びポーランド領、のちにウクライナ・ソビエト社会主義共和国領となった[5]。なお、旧称のトレンボウリャ(Трембовля / Trębowla)はポーランド語に由来する。この名称は1944年まで用いられていた[1]

行政

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テレボーウリャの評議会は、テレボーウリャ市とボルィチフスカ村(uk)から成り立っていた。しかし2007年11月4日の投票で有権者の大多数が分離に賛成したため、ボルィチフスカ村独自の村評議会(シリシカ・ラーダ(uk))が発足した。分離以前(2006年調査)の両行政区を合わせた人口は14,005人であった。そのうちテレボーウリャ市に13,455人、ボルィチフスカ村に550人が住んでいた。なお、1975年の人口は11,600人[5]、1990年の人口は13,600人[1]だった。

出典

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  1. ^ a b c Теребовля // Большой Энциклопедический словарь
  2. ^ Державний комітет статистики України. Чисельність наявного населення України на 1 січня 2011 року, Київ-2011 Archived 2012年10月10日, at the Wayback Machine.
  3. ^ a b c Теребовля // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона
  4. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』p278
  5. ^ a b c d Теребовля // Большая советская энциклопедия
  NODES
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