トデゲン
3世紀のジョチ・ウルスの人物。モンケ・テムルの三男。母はスルタン・ハトゥン(第二正妃、Sultan Khatun、ウーシン部族(Hüshin tribe)、子にアヤチ(Abachi))
(デュデンから転送)
トデゲン(ペルシア語: توداکان / Tödägän)は13世紀のジョチ・ウルスの人物である。モンケ・テムルの子、トクタの兄弟にあたる。またルーシの年代記(レートピシ)中では「Дюдень」と名を記録されており[1]、ロシア史に関する日本語文献ではこれに基づく「デュデン」を用いているものがある[2]。
事績
編集13世紀後半(モンゴルのルーシ侵攻以降)、ウラジーミル大公国領では、アレクサンドル・ネフスキーの子ドミトリーとアンドレイが、ウラジーミル大公位を巡って政権闘争を繰り広げていた。この情勢に際し、トデゲンは1293年[3]、アンドレイ側に立って軍事介入を行った。ロシア史においては、これをデュデンの侵寇という[注 1]。この介入はノガイの依頼に従ったという説[4]、ノガイの権勢増大を望まないトクタの命によるとする説[5]、立案はアンドレイであり、アンドレイがトダ・モンケに要請したとみなすべきとする説がある[2]。トデゲンはこの介入において、モスクワを含む[6]、スーズダリ、ウラジーミル、ムーロム、コロムナなど14のルーシの都市を荒廃させた。
子
編集デュデンの子チョルハン(ru)[注 2]はトヴェリ公国に対し強権を発動したため、1327年、トヴェリ公国民の蜂起(トヴェリ蜂起[注 3])によって殺害された[7]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ Новгородская летопись
- ^ a b c 栗生沢猛夫「分領制ロシアの時代 -諸公国の分立とモンゴルの侵入」 // 『世界歴史大系 ロシア史 1 -9世紀~17世紀-』P161
- ^ Halperin, Charles (1987). Russia and the Golden Horde: The Mongol Impact on Medieval Russian History. Indiana University Press. p. 145.
- ^ Дюдень // Энциклопедический лексикон — СПб.: 1841. — Т. 17.
- ^ Вадим Леонидович Егоров. Историческая география Золотой Орды в XIII—XIV вв. М., «Наука» 1985. Глава пятая: Военно-политическая география Золотой Орды
- ^ Frankland, Charles Colville (1832). Narrative of a Visit to the Courts of Russia and Sweden. 2. p. 187.
- ^ a b 栗生沢猛夫「モスクワ大公国の成立と発展」 // 『世界歴史大系 ロシア史 1 -9世紀~17世紀-』P169
参考文献
編集- Дюдень // Энциклопедический лексикон — СПб.: 1841. — Т. 17.
- 田中陽兒,倉持俊一,和田春樹編『世界歴史大系 ロシア史 1 -9世紀~17世紀-』山川出版社、1995年