ムスチスラフ2世
ムスチスラフ2世(古ルーシ語:Мьстиславъ Изѧславичь、? - 1170年)は、キエフ大公(在位:1167年 - 1169年)。イジャスラフ2世の長男。息子には南西ルーシの雄ロマン大公がいる。
ムスチスラフ2世 Мьстиславъ Изѧславичь | |
---|---|
キエフ大公 | |
| |
在位 | 1167年 - 1169年 |
死去 |
1170年 |
配偶者 | アニェスカ・ボレスワヴヴナ |
子女 |
ロマン スヴャトスラフ フセヴォロド |
家名 | リューリク家 |
王朝 | リューリク朝 |
父親 | イジャスラフ2世 |
母親 | アグネス・フォン・ホーエンシュタウフェン |
来歴
編集→「ルーシ内戦 (1146年 - 1154年)」も参照
- 出生年は不明。初出はラヴレンチー年代記の1146年の記事、次いでイパーチー年代記の1147年 - 1148年に登場。当初、ペレヤスラヴリ・ルースキーの公で、1148年に、ユーリー・ドルゴルーキーの子グレプをこの町で撃退した。
- 1151年 父を助けるためにハンガリー軍を率いるが、ユーリー・ドルゴルーキーの同盟者であるガーリチ公ウラジーミルにより打ち敗れられる。
- 1154年までペレヤスラヴリの公。
- 1157年 キエフに座すユーリー・ドルゴルーキーに対し、チェルニーゴフ公と共に軍を向けるが、この時にユーリーはキエフで死去した。
- 1159年 キエフを占領し、自分の叔父スモレンスク公ロスチスラフを大公位につけた。
- 1167年 叔父が死んだ後、ムスチスラフはキエフに招致され、キエフ大公になった。
- 1168年 ポーロヴェツ遠征。
- 1169年 アンドレイ・ボゴリュブスキーのキエフ攻撃にこらえきれず、ウラジーミル・ヴォルィンスキーに退去する。
- 1170年 再度、短期間だがキエフを占領。同年、ウラジーミル・ヴォルィンスキーで死去。
子女
編集ポーランド王ボレスワフ3世の娘アニェスカ(ru)と結婚し、3人の息子をもうけた。
|
|
|
|
|
|