三輪 根麻呂(みわ の ねまろ)は、飛鳥時代豪族根麿とも表記される。

 
三輪根麻呂
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 不明
別名 根麿
官位 征新羅中将軍
主君 天智天皇
氏族 三輪君
父母 三輪色夫
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出自

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三輪君氏」は大和盆地東南部を根拠地にした氏族で、『古事記』の崇神天皇の条に三輪山の伝説が掲載されており、同様の記述は『日本書紀』巻第五の崇神天皇7年2月15日条と8年12月20日条にも見られる。『書紀』巻第一の神代上第8段には大己貴神と大三輪の神との対話がのせられており、賀茂君と共に大三輪の神の子孫だとしている。『新撰姓氏録』「大和国神別」には、「素佐能雄命六世孫大国主之後也」とある。

『書紀』巻第十四には、御馬皇子が三輪君身狭の許に身を寄せようとしたとあり、根麻呂の近親一族としては、巻第二十、第二十一に、敏達天皇の側近であった三輪逆のことが述べられている。そのほか、巻第二十三の舒明天皇8年(636年)3月条に小鷦鷯君、巻第二十四に山背大兄王文屋君、巻第二十五の孝徳天皇大化元年(645年)7月10日条に三輪栗隈君東人、大化元年8月条・5年5月条に色夫君などの名があげられている。

経歴

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『書紀』巻第二十七によると、天智天皇2年(663年)3月新羅討伐の部隊として半島にわたり、 上毛野君稚子(かみつけの の きみ わかこ)、巨勢神前臣訳語(こせのかんさき の おみ おさ)・阿倍引田臣比羅夫(あべのひけた の おみ ひらふ)と共に、2万7千人の軍団を率いて、新羅を討ったとある[1]

同年8月27日・28日に行われた白村江の戦いは、唐・新羅連合軍の圧勝で、日本・百済連合軍の完敗であった。ヤマト王権が擁立した百済王、余豊璋高句麗へ逃亡し、百済復興計画は失敗に終わった[2]。百済の遺民たちは、日本軍の拠点である弖礼城(てれさし)へ家族ともども逃げ延び、合流した日本軍や百済の将軍らと共に日本へと落ち延びていった[3]

この戦いで、根麻呂がどのような働きをしたのかは分かってはいない。また、無事に日本へ帰り着いたか否かについても不明である。ただ、

更に日本の(つら)乱れたる中軍(そひのいくさ)の卒(ひとども)を率(ゐ)て、進みて大唐の陣(つら)を堅くせる軍(いくさ)を打つ。[4]

とあるので、巨勢神前訳語・三輪根麻呂の率いていた中軍は隊列の立て直しに手間取り、かなりの激戦を強いられたことが分かる。

のちに三輪氏は大三輪氏(大神氏)と改氏し、『書紀』巻第二十九によると、八色の姓制定により、天武天皇13年(684年)11月に朝臣に改姓している[5]

神部直根マロについて

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和銅元年(708年)に編纂されたと伝わる『粟鹿大明神元記』は、粟鹿神社祭主・神部直根マロ(みわべのあたいねまろ、マロの字は門がまえに牛)であるが、根マロは新羅将軍・正六位上とされており、是澤恭三田中卓は、神部直根マロと三輪君根麻呂は同一人物であると主張した[6][7][8][9]。ただし、溝口睦子や鈴木正信はこの説を否定している[10]

『粟鹿大明神元記』によれば、神部直根マロは、朝来郡国造・大九位の神部直万侶と神部直某の娘・秦女の間に生まれ、30歳の時に但馬国の人々を率いて新羅を攻め、斉明天皇によって朝来郡大領に任じられたという。また、天智天皇の時、庚午年籍作成のための調査を命じられ、それに従ったという。

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』天智天皇2年3月条
  2. ^ 『日本書紀』天智天皇2年8月27日条、28日条
  3. ^ 『日本書紀』天智天皇2年9月7日条、11日条、13日条、24日条、25日条
  4. ^ 『日本書紀』天智天皇2年8月28日条
  5. ^ 『日本書紀』天武天皇13年11月1日条
  6. ^ 『神道宗教』十号「粟鹿神社祭神の新発見」(1955年
  7. ^ 『日本学士院紀要』十四巻三号、十五巻一号「粟鹿大明神元記の研究」(1956年1957年
  8. ^ 『書陵部紀要』九号「但馬国朝来郡粟鹿大明神元記に就いて」(1958年
  9. ^ 『芸林』七巻四号「古代氏族の系譜ーミワ氏族の移住と隆替ー」(1956年
  10. ^ 鈴木正信『大神氏の研究』(雄山閣、2014年)

参考文献

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関連項目

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