中嶋聡

日本の野球指導者、元プロ選手 (1969-)

中嶋 聡(なかじま さとし、1969年3月27日 - )は、秋田県北秋田郡鷹巣町(現:北秋田市)出身の元プロ野球選手捕手、右投右打)、プロ野球監督オリックス・バファローズの第29代監督を務めていた。

中嶋 聡
2023年10月21日 京セラドーム大阪
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 秋田県北秋田郡鷹巣町(現:北秋田市
生年月日 (1969-03-27) 1969年3月27日(55歳)
身長
体重
182 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1986年 ドラフト3位
初出場 1987年10月18日
最終出場 2015年10月1日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 北海道日本ハムファイターズ (2007 - 2018)
  • オリックス・バファローズ (2019 - 2024)

1987年阪急ブレーブスへ入団してから、西武ライオンズ横浜ベイスターズ北海道日本ハムファイターズでプレー。日本ハム時代の2007年から2015年まではバッテリーコーチを兼務していた。

2015年に現役選手としての一軍実働年数が29年に到達し、工藤公康と並ぶNPB最長記録を達成。

愛称は「サメ[1]。妻はモデル中嶋愛漫画家制野秀一義父にあたる。

経歴

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プロ入り前

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鷹巣中学校卒業後に進学した秋田県立鷹巣農林高校では、1985年秋季東北大会県予選準々決勝に進むが秋田高に敗退。翌1986年夏の甲子園県予選も準々決勝で横手高に敗れる。同年のNPBドラフト会議阪急ブレーブスから3位指名を受け、入団。

阪急・オリックス時代

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1988年10月23日[注 1]ダブルヘッダーで開催された阪急としての西宮球場最終戦(対ロッテ26回戦)にて、ダメ押しとなる3点本塁打[注 2]を放ち、同郷である山田久志の引退試合に花を添えた。

1989年、球団名がオリックス・ブレーブスに変わってからは、正捕手だった藤田浩雅の不調により正捕手の座を掴む。球界随一の強肩もさることながら、打撃センスに優れ、俊足で盗塁も果敢に挑戦し走攻守すべての面を持ち合わせていたため、一時は「メジャーリーグに一番近い捕手」とまで言われた[2]。4番打者を務めたこともある。

1990年10月6日の対ロッテオリオンズ戦では、満塁からインフィールドフライを故意に落球。打者には落球の有無にかかわらず審判から自動的にアウトを宣告されたため、本塁における三塁走者のフォースアウトで併殺を狙ったが、インフィールドフライの扱いに対する解釈の誤りからロッテに得点を許してしまった[注 3]門田博光に大きく振り抜くコツを伝授され同年二桁となる12本塁打という急成長を遂げた[3]

1991年以降も正捕手の座を維持していたが、1990年代の中盤以降は打撃が徐々に低迷。仰木彬が監督を務めていた時期には、藤田とのトレードで読売ジャイアンツ(巨人)から加入した高田誠や、若手の三輪隆と併用されていた。

1995年には佐藤義則ノーヒットノーラン(当時のNPB公式戦史上最年長記録)[2]や11年ぶりのパシフィック・リーグ優勝に貢献。

1996年には、仰木の下でリーグ連覇と19年ぶりの日本シリーズ制覇も経験している。

西武時代

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1997年シーズンオフにフリーエージェント宣言し、メジャーリーグ挑戦を表明[2]。複数の球団と接触し、アナハイム・エンゼルスの入団テストを受けた[2]。一時は入団が決まりかけたが、エンゼルス側が提示した条件が、3番手捕手としてのマイナー契約であったため、メジャーリーグ移籍を断念。国内球団の移籍に的を絞り、西武ライオンズ日本ハムファイターズが中嶋の獲得に乗り出したが、最終的に西武へ移籍[4]

1998年日本シリーズでは不調のベテラン伊東勤に代わり一時的な活躍こそしたが、長年西武一筋で信頼感のある伊東から正捕手の座を奪うことはできなかった。

1999年松坂大輔専用の捕手として起用される[注 4]ことで出場機会を得たが、2001年以降は松坂登板時も伊東がマスクを被る機会が増え、さらに打撃の低迷に加えて西武が若手捕手育成の方針を取ったため次第に出場機会が減っていった。

2000年和田一浩背番号を交換した(中嶋:5→22、和田:22→5)が、中嶋によると「22の方が捕手のイメージが強い」という理由により、当時は捕手登録ながら、既に外野手としての出場が多かった和田に持ちかけたものだという[5]。また、同年5月20日に長野オリンピックスタジアムで初めて行われた古巣オリックス戦で、2回裏にテリー・ブロウズから同スタジアムの公式戦第1号本塁打を左翼スタンドに放っている。

2002年、大半を二軍で過ごし、オフに富岡久貴と共に石井義人細見和史との2対2の交換トレードで横浜ベイスターズへ移籍[6]

横浜時代

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2003年、前年に正捕手だった谷繁元信がFAで中日へ移籍しており、若手の相川亮二、前年に谷繁と入れ替わりで中日から移籍した中村武志の正捕手争いに自身が参戦する形でハイレベルなポジション争いが期待され、開幕戦では先発マスクを被ったが、故障や打撃不振などで結果を残せず、オフに中村の復調や相川の台頭で構想外となり、金銭トレードで北海道日本ハムファイターズへ移籍[7]。1997年のFA時から6年越しの日本ハム入団となった。

日本ハム時代

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2004年は、9月に横浜球団のキャンペーンガールをしていたモデルの制野愛(現在は中嶋愛)と結婚。

2005年は、当初3番手捕手のはずだったが、正捕手髙橋信二の度重なる故障と實松一成の不調もあり、捕手でチーム最多の出場機会を得た。

2006年は、先発出場はわずか2試合と激減したが、守護神マイケル中村との相性の良さから、試合後半を任される「抑え捕手」の地位を獲得。以後、マイケルが巨人へ移籍する2008年シーズン終了までマイケルの専属捕手のような状態だった。結局、2006年は捕手としてはチーム最多の79試合に出場し、チームのリーグ優勝と日本シリーズ優勝に貢献した。また、6月19日の対阪神タイガース戦の試合前に行われたスピードガンコンテストで球速146km/hを記録し、中嶋より遥かに若い阪神・日本ハムの選手達を抑え優勝。強肩健在ぶりを大いにアピールした[注 5]

2007年は、選手と一軍バッテリーコーチを兼任。以後は選手としての一軍登録抹消時はコーチ専任で一軍に帯同した。開幕直後に一軍登録を抹消されるも、調子の上がらないマイケルをサポートするため再度一軍へ昇格し、そのまま最後まで一軍で抑え捕手として活躍。この年唯一放った安打は、9月15日の対ソフトバンク戦で放ったダメ押しの3ランだった。

2008年は、シーズン後半からではあるが、再度一軍へ昇格、抑え捕手を務めた。また、不調に陥った多田野数人をサポートするために1試合のみではあるが、2年ぶりに先発出場を果たした。

2009年は、大野奨太の入団とマイケルの巨人への移籍があって、捕手は鶴岡慎也と大野の併用が多くなったために出場機会がなかった。7月18日に一度登録されるも、試合の雨天中止により、出場しないまま登録抹消された。しかし、大野がインフルエンザに感染したため8月16日に急遽一軍登録され、その日の対埼玉西武ライオンズ戦(札幌ドーム)の9回からマスクを被りシーズン初出場を果たした。また、8月21日の対ソフトバンク戦ではダルビッシュ有の先発捕手として出場し、自身も1安打を放った。さらに同年の日本シリーズでもマスクを被った。

2010年は、4月2日に一軍登録され、対西武戦(札幌ドーム)に7回途中から出場し、実働年数が24年となった。これは歴代3位タイで、捕手では野村克也南海ロッテ西武)の26年に次ぎ、単独2位の年数である。4月23日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦ではバディ・カーライルの先発捕手として出場した。

2011年は、鶴岡が開幕直前に離脱したこともあり、2007年以来4年ぶりに開幕戦から選手として一軍登録される。4月13日の西武2回戦(札幌ドーム)に9回表から出場、実働年数が25年となった。

 
北海道日本ハムファイターズ選手兼バッテリーコーチ時代(2012年)

2012年は、5月9日に一軍登録され、5月12日の西武7回戦(函館オーシャンスタジアム)で9回表に守備で出場し、実働年数が26年となり、野村、山本昌中日)と並び、歴代2位(野手では1位)の記録となった[8]

2013年は、9月28日の対オリックス戦(京セラドーム)で、この年初めて一軍公式戦に出場。野手としてのNPB一軍実働年数最多記録(27年)を達成した[9]

2014年は、6月27日の対楽天戦(札幌ドーム)8回表から捕手として出場。この年唯一の一軍公式戦出場であったが、野手としてのNPB一軍実働年数記録を28年に更新するとともにパシフィック・リーグ公式戦での実働年数記録(27年)を達成した[10]

2015年は、4月15日の対ロッテ戦(札幌ドーム)9回表に、捕手としてこの年初めて一軍公式戦に出場。工藤公康の持つ(投手を含めての)NPB一軍実働年数記録(29年)に並んだ[11]。その後は事実上バッテリーコーチに専念していたが、10月1日に現役を引退した。日本ハム球団では対ロッテ23回戦(札幌ドーム)を中嶋の引退試合として開催した[12]。その一方で、オフには自身の意向でバッテリーコーチも退任した[13]。11月2日に引退会見を実施[14]。11月27日付で、日本野球機構(NPB)から任意引退選手として公示された[15]

現役引退後

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2016年、日本ハムのチーム統括本部としてゼネラルマネジャー特別補佐に就任し、日本ハムの業務提携球団に当たるMLBサンディエゴ・パドレスに派遣[16]。アメリカ滞在中には、コーチとしてマイナーリーグの傘下球団を巡回する一方で、外国人選手のスカウティングにも携わっていた[17]

2018年、日本ハムの一軍バッテリー兼作戦コーチとして3年ぶりに現場へ復帰した[18]が、シーズン終了後の10月19日に退団。

2019年オリックス・バファローズの二軍監督に就任[19]ブルーウェーブの捕手時代にバッテリーを組んでいた小林宏二軍投手コーチと共に、榊原翼K-鈴木などの投手を一軍に定着させた[20]

オリックス監督時代

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2020年、二軍監督を務めていたが、一軍監督の西村徳文が8月20日の対西武戦(京セラドーム大阪)終了後に辞任したことを受けて、翌21日から一軍監督代行に就任[21][22]。この異動に伴って、二軍投手コーチの小林が二軍監督代行を務めている[21]。シーズン終了後の11月12日、一軍監督に就任[23]

2021年、二軍にいた杉本裕太郎の長打力を買って4番に抜擢し、宗佑磨の守備センスを見抜いて外野から三塁にコンバート、小田裕也には小技を徹底的に磨かせるなど、個々の長所を組み合わせる戦法を貫いた[24]。正式な監督就任初年度となる2021年にオリックスの25年ぶりのリーグ優勝を果たす[25]。阪急・オリックスの球団史上、チームで選手としてプレー経験のある監督がリーグ優勝を達成するのは中嶋が初となる[26][注 6]千葉ロッテマリーンズとのクライマックスシリーズは3勝1分でCS突破し、日本シリーズ進出を決めた。日本シリーズは東京ヤクルトスワローズに2勝4敗で敗れ、日本一を逃した。

2022年、オリックスをパ・リーグ連覇、2年連続の日本シリーズ進出に導き、同シリーズでヤクルトを4勝2敗1分けで下し、日本一を達成[27]。同年オフに正力松太郎賞を受賞した[28][29]

2023年、オリックスをパ・リーグ3連覇に導くが[30]日本シリーズで阪神と対戦し、3勝4敗で惜しくも連覇を逃す。

2024年シーズンは最終的に5位に終わり、10月6日のシーズン最終戦となった楽天戦後に今季限りで監督を退任することを発表した[31][32]

人物

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アマチュア球界でも中嶋の強肩は知れ渡っていた。

最初に入団した阪急で、山田久志佐藤義則今井雄太郎といったベテラン投手陣の薫陶を受けた。

星野伸之は120km/h台の速球と80km/h台のスローカーブを武器にする投手で、1990年9月20日の対日本ハム戦(東京ドーム)で星野が田中幸雄に投じたすっぽ抜けたカーブを中嶋が右手で直接捕球し、星野を超える球速で返球したことで失笑が起こった[注 7]。ベンチに帰り星野は「素手で取るなよ。ミットが動いてなかったぞ」と機嫌を悪くしていたが、中嶋は「ミットが届かなかったんです」と誤魔化し事態は収まった[33]

  • 星野は後に著書『真っ向勝負のスローカーブ』でこのときの“素手でキャッチ事件”を振り返り、“今となってはいい思い出である”と述べているほか、“中嶋はいい捕手だった”とも述べている。
  • この「素手キャッチ」は星野が投球練習をする時にもしばしば見られたことである。当時は「星野が中嶋に投げる球より、中嶋が星野に返す球の方が速い」とまで言われていた。
  • オリックス時代にはプロ野球選手を最初にアイドル的に扱った雑誌・プロ野球aiに特集記事が度々掲載されるほどであった。

普段は近視のためコンタクトレンズを着用しているが、2005年シーズンの一時期だけ眼鏡を掛けてプレーしていた。

2018年限りで北海道日本ハムファイターズを退団したが、その発表の日付が10月19日であった。日本ハム球団によれば「阪急ブレーブスがオリックスに身売りすることが発表された1988年10月19日から30年を迎え、最後の阪急戦士だった中嶋が阪急を引き継ぐオリックスへの復帰を手助けするためにこの日に発表した」とのことである[34]

2007年の一軍バッテリーコーチ就任以降選手登録はされていたものの、ほとんどコーチ専任であった。というのも、一軍の本拠地(札幌)と二軍の本拠地(鎌ケ谷)が地理的にかけ離れており、たとえ一軍捕手にアクシデントがあっても二軍から捕手を緊急で一軍昇格させることが難しい状況であった。そこで、一軍に常時帯同している中嶋は緊急昇格に対応できる「保険」の役割を担っていた。体力的には既に限界であったが中々引退を認めて貰えず、2015年に翌2016年に北海道新幹線が道南まで開通することが決まり一軍・二軍間の交通面が改善されたことや、捕手登録されていた近藤健介が外野手へコンバートされたことで近藤の緊急時の捕手起用が可能となったことにより、現役生活から解放されることとなった。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1987 阪急
オリックス
2 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
1988 74 145 135 7 24 8 1 2 40 14 1 1 3 2 3 0 2 34 1 .178 .204 .296 .501
1989 121 373 320 31 75 9 2 5 103 26 2 2 15 1 35 0 2 67 6 .234 .313 .322 .635
1990 95 318 286 46 81 9 4 12 134 39 8 2 8 2 19 0 3 62 4 .283 .332 .469 .801
1991 129 471 430 49 109 22 3 12 173 48 4 5 7 1 30 0 3 85 3 .253 .306 .402 .708
1992 115 408 342 44 85 13 0 6 116 33 5 4 16 5 37 2 8 68 15 .249 .332 .339 .671
1993 55 174 148 7 22 3 0 0 25 4 1 1 8 0 16 0 2 41 5 .149 .241 .169 .410
1994 37 107 94 11 30 6 0 4 48 19 0 0 2 2 9 0 0 23 2 .319 .371 .511 .882
1995 101 345 303 33 81 13 1 3 105 33 0 1 7 2 33 1 0 61 8 .267 .337 .347 .684
1996 98 292 257 17 57 6 1 1 68 24 1 0 12 3 18 0 2 59 4 .222 .275 .265 .540
1997 73 195 169 15 37 6 0 2 49 14 2 2 9 0 14 0 3 44 4 .219 .290 .290 .580
1998 西武 60 124 106 8 25 4 1 2 37 7 0 3 6 0 7 0 5 24 4 .236 .314 .349 .663
1999 72 193 155 10 30 4 0 0 34 16 2 1 12 5 20 0 1 31 8 .194 .282 .219 .501
2000 78 217 182 19 43 6 0 2 55 26 0 0 13 3 17 0 2 33 7 .236 .304 .302 .606
2001 65 154 123 7 25 6 0 1 34 14 0 1 15 2 14 1 0 34 4 .203 .281 .276 .557
2002 49 85 74 7 12 1 0 1 16 2 1 0 3 0 7 0 1 22 2 .162 .244 .216 .460
2003 横浜 19 60 56 4 12 1 0 0 13 3 0 0 1 0 2 0 1 10 2 .214 .254 .232 .486
2004 日本ハム 39 72 66 4 13 3 0 0 16 7 0 0 3 1 2 0 0 17 2 .197 .217 .242 .460
2005 79 186 171 8 32 4 0 1 39 11 0 0 7 1 7 0 0 38 4 .187 .218 .228 .446
2006 79 30 29 0 6 2 0 0 8 5 0 0 0 0 0 0 1 6 1 .207 .233 .276 .509
2007 60 15 15 1 1 0 0 1 4 3 0 0 0 0 0 0 0 5 0 .067 .067 .267 .333
2008 22 4 4 1 3 0 0 0 3 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .750 .750 .750 1.500
2009 3 4 3 1 1 0 0 0 1 0 0 1 1 0 0 0 0 1 0 .333 .333 .333 .667
2010 7 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
2011 10 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
2012 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
2013 2 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
2014 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
2015 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
通算:29年 1550 3977 3473 330 804 126 13 55 1121 349 27 24 148 30 290 4 36 768 86 .232 .295 .323 .618
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高
  • 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更

年度別守備成績

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捕手






















1987 阪急
オリックス
2 4 0 0 0 0 1.000 0 0 0 ----
1988 74 266 28 4 3 5 .987 30 17 13 .433
1989 120 619 58 9 13 6 .987 87 62 25 .287
1990 94 527 43 8 6 8 .986 59 41 18 .305
1991 128 739 77 10 11 11 .988 78 55 23 .295
1992 104 599 49 5 6 4 .992 64 41 23 .359
1993 55 308 33 3 1 2 .991 37 27 10 .270
1994 28 154 18 1 4 2 .994 27 20 7 .259
1995 96 611 59 7 7 4 .990 69 46 23 .333
1996 97 502 40 2 3 1 .996 63 50 13 .206
1997 66 313 37 9 4 0 .975 67 49 18 .269
1998 西武 54 217 22 0 1 1 1.000 19 8 11 .579
1999 72 379 21 2 6 2 .995 29 17 12 .414
2000 72 413 39 3 6 5 .993 46 30 16 .348
2001 64 323 20 1 4 1 .997 29 18 11 .379
2002 48 195 14 0 1 1 1.000 11 6 5 .455
2003 横浜 19 121 4 0 1 1 1.000 16 15 1 .063
2004 日本ハム 37 118 13 1 0 4 .992 18 14 4 .222
2005 79 356 26 2 2 4 .995 44 32 12 .273
2006 78 141 7 0 1 0 1.000 10 8 2 .200
2007 60 76 2 0 0 1 1.000 3 3 0 .000
2008 22 21 0 0 0 0 1.000 1 1 0 .000
2009 3 7 2 0 0 0 1.000 2 2 0 .000
2010 7 8 0 0 0 0 1.000 0 0 0 ----
2011 10 12 0 0 0 1 1.000 0 0 0 ----
2012 3 5 0 0 0 0 1.000 1 1 0 .000
2013 2 2 1 0 0 1 1.000 1 1 0 .000
2014 1 0 0 0 0 0 ---- 0 0 0 ----
2015 2 1 0 0 0 0 1.000 0 0 0 ----
通算 1497 7037 613 67 82 65 .991 811 564 247 .305

表彰

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記録

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初記録
節目の記録
その他の記録

通算監督成績

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2020 オリックス ※6位 67 29 35 3 .453 27.0 77 .247 3.97 51歳
2021 1位 143 70 55 18 .560 --- 133 .247 3.31 52歳
2022 1位 143 76 65 2 .539 --- 89 .246 2.84 53歳
2023 1位 143 86 53 4 .619 --- 109 .250 2.73 54歳
2024 5位 143 63 77 3 .450 28.0 71 .238 2.82 55歳
通算:5年 627 316 281 30 .529 Aクラス3回、Bクラス2回
※1 2020年、西村徳文監督が辞任した後、8月21日からシーズン終了まで監督代行
※2 2022年、新型コロナウイルス陽性判定による隔離療養のため8月26日から9月1日まで欠場。監督代行は水本勝己(3勝3敗)
※3 2023年、体調不良のため6月13日から6月22日まで欠場。監督代行は水本勝己(5勝1敗)
※4 通算成績は、欠場した12試合(8勝4敗)は含まない
※5 太字は日本一

背番号

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  • 53(1987年 - 1988年)
  • 27(1989年 - 1997年、2011年 - 2015年)
  • 5(1998年 - 1999年)
  • 22(2000年 - 2002年)
  • 35(2003年)
  • 32(2004年 - 2010年)
  • 72(2018年)
  • 78(2019年 - )

脚注

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注釈

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  1. ^ 同日はナゴヤ球場にて中日×西武の日本シリーズ第2戦が開催されていたが、同年は雨天中止による順延が多数発生したため公式戦最終日が日本シリーズ開催期間中の同日までずれ込んでいた。
  2. ^ この本塁打が阪急球団最後の本塁打。同時に昭和時代最後の公式戦本塁打となった。
  3. ^ インフィールドフライが宣告された時点で打者走者は自動的にアウトとなるため、他の走者はフォースの状態ではなくなる。よって、満塁の場面でも本塁に触れただけでは三塁走者をアウトには出来ない。同様のミスは、達川光男広島)も1991年に犯している。
  4. ^ その一方で、当時西武のエースだった西口文也とは逆にバッテリーを組む機会が全くといっていいほどなかった(西口が投げる試合ではほとんど伊東がマスクを被っていた)。
  5. ^ 1995年のオールスターゲームでも146km/hを記録している。
  6. ^ 他球団の監督を含めると、阪神タイガースの監督として2005年にセントラル・リーグ優勝を果たした岡田彰布に次いで2人目。
  7. ^ 2015年10月1日の引退試合後に行われた引退セレモニーでも中嶋の軌跡を振り返る映像でそのシーンが流され場内は爆笑。本人は苦笑していた。

出典

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  1. ^ 【番記者プロデュース】誰も知らない!?素顔のオリックス・中嶋監督、4人の証言者が明かす カラオケでは歌詞もメロディーも完璧”. サンケイスポーツ (2021年2月27日). 2021年6月17日閲覧。
  2. ^ a b c d 【レジェンドの決断 中嶋聡2】強肩と経験…戦力であり続けた29年”. スポーツニッポン (2016年1月22日). 2016年1月22日閲覧。
  3. ^ ベースボールマガジン 別冊新緑号(2023年5月号:門田博光と南海ホークス)、58頁
  4. ^ 【12月6日】1999年(平11) 良妻・中嶋聡、“松坂査定”で年俸4%ダウンで済んだ”. スポーツニッポン. 2008年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年12月7日閲覧。
  5. ^ 【背番号物語】西武「#5」辻の系譜を「気分一新で」着けた和田。最長は名将として大成した二塁手 - 週刊ベースボールONLINE、2021年4月18日配信、ベースボール・マガジン社
  6. ^ 「西武・中島らを横浜へトレード 2対2の交換で」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2002年(平成14年)11月27日付朝刊、19面(スポーツ面)。
  7. ^ 「日本ハムと横浜でトレード」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2003年(平成15年)10月15日付朝刊、19面(スポーツ面)。
  8. ^ 9回に今季初マスク…ハム中嶋が実働26年目に到達”. スポーツニッポン (2012年5月12日). 2022年1月6日閲覧。
  9. ^ 中嶋が野手最長の実働27年 ノムさん抜くも「深い感想ない」”. スポーツニッポン (2013年9月28日). 2022年1月6日閲覧。
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  12. ^ 中嶋聡バッテリーコーチ兼捕手が 現役を引退”. 北海道日本ハムファイターズ (2015年10月1日). 2022年1月6日閲覧。
  13. ^ 引退の日本ハム中嶋、兼任バッテリーコーチも退任へ”. 日刊スポーツ (2015年10月12日). 2021年6月16日閲覧。
  14. ^ 引退の日本ハム・中嶋聡氏がGM特別補佐就任 MLBパドレスにコーチ留学へ”. Full-Count (2015年11月2日). 2024年1月31日閲覧。
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  27. ^ 【オリックス】日本一の優勝会見<1>中嶋聡監督「感動的なことを言えれば良いんでしょうけど、ないです」”. スポーツ報知 (2022年10月31日). 2022年11月8日閲覧。
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  29. ^ 正力賞のオリ・中嶋監督「いいのでしょうか、私で」 3冠王・村上、投手4冠・由伸を自ら“推す””. スポニチアネックス (2022年11月8日). 2022年11月8日閲覧。
  30. ^ 3連覇のオリックス・中嶋監督「最高です」名将の仲間入り 七回大逆転に「嘘ついたかなあと思った」と笑い誘う」『デイリースポーツ online』株式会社デイリースポーツ、2023年9月20日。2023年9月20日閲覧。
  31. ^ 【オリックス】中嶋聡監督、電撃辞任 試合後に選手らに伝える 3連覇果たした名将がユニホーム脱ぐ - スポーツ報知 2024年10月6日
  32. ^ 中嶋聡監督退任について”. オリックス・バファローズ. 2024年10月6日閲覧。
  33. ^ 別冊宝島 プロ野球「絶対エース」の豪腕伝説より
  34. ^ 高原寿夫「「最後の阪急戦士」中嶋コーチ退団10・19のワケ」『ニッカンスポーツ・コム』(日刊スポーツ)2018年10月26日。2018年10月26日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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