松平 勝成(まつだいら かつしげ)は、江戸時代後期の大名茶人伊予国松山藩第13代・15代(再勤)藩主。定勝系久松松平家宗家第14代・16代当主。第15代将軍・徳川慶喜の従兄。明治維新後は久松 勝成(ひさまつ かつしげ)を名乗った。

 
松平 勝成 / 久松 勝成
松平勝成
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保3年6月24日1832年7月21日
死没 明治45年(1912年2月8日
改名 増之助(幼名)→松平勝成→久松勝成
戒名 寛裕院殿
墓所 東京都港区三田済海寺
官位 従四位下刑部大輔式部大輔侍従隠岐守左近衛権少将、従四位上、正四位従三位正三位
幕府 江戸幕府
主君 徳川家定家茂慶喜明治天皇
伊予松山藩
氏族 高松松平家久松松平家定勝流→久松氏
父母 父:松平頼恕、母:正林院殿
養父:松平勝善
兄弟 頼煕武揚勝成頼聰大久保忠礼、光安姫、真晴院、郁姫
正室:令姫(松平勝善の養女)
継室:鋼姫酒井忠学の娘)
浄徳院、久松定靖
養子:定昭
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生涯

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讃岐国高松藩主・松平頼恕の三男として誕生した。母は側室の正林院殿(浅田氏の娘)。幼名増之助

弘化4年(1847年)、伊予松山藩第12代藩主・松平勝善の養嗣子となる。同年、従四位下に叙され、溜間詰格に任ぜられる。続いて刑部大輔に任ぜられ、のちに式部大輔に転任、侍従に昇る。嘉永4年(1851年)、溜間詰に任ぜられる。安政3年(1856年)、勝善の死去により家督を相続し、隠岐守に転任する。勝成もまた子に恵まれず、同6年(1859年)、先代・勝善の娘(貞恭院殿)を養女とし、藤堂高猷の五男・練五郎(のちの定昭)を配して養子とする。

万延元年(1860年)、神奈川警衛の功により左近衛権少将に昇進する。文久3年(1863年)、参内し孝明天皇の拝謁を賜う。この後、計3回の拝謁を賜う。幕末の混乱時では京都の警備と第14代将軍徳川家茂の供奉に従う。元治元年(1864年)、第一次長州征討では一番手の出兵を命ぜられ、一応ながら勝利を収めた。この年、従四位上に昇り、歴代藩主で最高位に達する。第二次長州征討においても同じく一番手の出兵を命ぜられたが、幕府側の足並みがそろわず、実際に戦闘を繰り広げたのは松山藩のみで、敗戦を喫す。また、第二次長州征討時に占領した大島で、配下の兵が住民に対して乱暴狼藉を働いたことで、幕府軍の大義名分に大きな傷をつけると同時に、相手方の長州藩の恨みを買うこととなり、その後の松山藩の苦境の遠因をなした。なお、第二次長州征討が終了した年である1866年の11月17日には謝罪の使者を大島に派遣している。

慶応3年(1867年)、勝成はかねてより願い出て隠居が許され、家督を養子・定昭に譲る。その後、鳥羽・伏見の戦いでは大坂梅田に兵300を配置していたところから、朝廷より藩主・定昭が蟄居を命ぜられ、勝成が再勤を命ぜられる。松山藩は土佐藩山内家に進駐(松山城へ土佐藩兵が5か月間入城)されるも恭順の意を示し、松平家の家名と松山藩を守る。

同年、太政官布告により源姓松平氏葵紋を返上し、菅原姓久松氏に復姓する。版籍奉還により明治2年(1869年)に藩知事に就任する。同4年(1871年)、再び家督を養嗣定昭に譲る。定昭の死去後はその養嗣・定謨元服するまでその後見人となる。明治20年(1887年)12月26日に正四位叙任、明治25年(1892年)7月5日に実弟・頼聰と共に従三位に叙任、明治31年(1898年)6月20日に同じく頼聰と共に正三位に叙任された。

茶人としても知られ、忍叟と号した。明治31年(1898年)、松浦詮(心月庵)が在京の華族、知名士等と設立した輪番茶事グループ「和敬会」の会員となる。会員は、青地幾次郎(湛海)・石黒忠悳(况翁)伊藤雋吉(宗幽)伊東祐麿(玄遠)・岩見鑑造(葎叟)・岡崎惟素(淵冲)・金澤三右衛門(蒼夫)・戸塚文海(市隠)東胤城(素雲)東久世通禧(古帆)・松浦恒(無塵)・三田葆光(櫨園)・三井高弘(松籟)安田善次郎(松翁)の以上16人(後に益田孝(鈍翁)高橋義雄(箒庵)が入会)で、世に「十六羅漢」と呼ばれた。

明治45年(1912年)2月8日、東京にて死去した。享年81。法号は寛裕院殿。東京三田済海寺に葬られる。

系譜

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