井出謙治
井出 謙治(いで けんじ、1870年6月7日(明治3年5月9日) - 1946年(昭和21年)10月30日)は、日本の海軍軍人。海兵16期次席[1]。階級は海軍大将。
生誕 | 1870年6月7日(明治3年5月9日) |
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死没 | 1946年10月30日(76歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1891年 - 1930年 |
最終階級 | 海軍大将 |
経歴
編集幕臣・井出勝三の長男として生まれる。開成中学を経て、1885年、海軍機関学校に入校。機関学校廃止にともない、全生徒とともに1887年(明治20年)に海軍兵学校(16期)に編入し、同校を1890年(明治23年)に卒業(次席[1])、1891年(明治24年)に少尉任官。「吉野」回航、「吉野」分隊長、砲艦「大島」航海長、常備艦隊参謀、軍令部第2局員を経て、1899年(明治32年)アメリカへ私費留学し潜水艇について興味を持つ。製造会社に日参するも購入が条件と見学を断られ続けるが、退役米海軍少佐と知り合い潜水艇の航海を体験する。海軍省の命で潜水艇の購入交渉を行うが、予算の手当てができず交渉中止となった。1902年(明治35年)に帰国し、潜水艇への理解を深めることに尽力。「朝日」分隊長、駆逐艦「漣」艦長を歴任し、海軍省副官兼海相秘書官となり山本権兵衛大臣に仕えた。
その後、第2潜水艇隊司令兼水雷母艦「豊橋」艦長、海軍省副官、造船造兵監督官(イギリス出張)、イギリス大使館付武官、「磐手」艦長などを経て、1913年(大正2年)に海軍少将・呉水雷隊司令官となり、呉鎮守府参謀長、第4戦隊司令官、軍務局長、海軍次官などを歴任。1924年(大正13年)に海軍大将・軍事参議官、1930年(昭和5年)に退役した。
人物
編集藤田尚徳(海兵29期、海軍大将)によると、海軍部内において、岡田啓介(海兵15期、海軍大将)と並び、抜群の記憶力で知られていた[2]。
栄典
編集- 位階
- 1896年(明治29年)2月10日 - 従七位[3]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 正七位[4]
- 1905年(明治38年)2月14日 - 正六位[5]
- 1908年(明治41年)12月11日 - 従五位[6]
- 1914年(大正3年)1月30日 - 正五位[7]
- 1917年(大正6年)12月28日 - 従四位[8]
- 1923年(大正12年)2月10日 - 正四位[9]
- 1925年(大正14年)
- 勲章
脚注
編集- ^ a b 秦 2005, pp. 269–288, 第1部 主要陸海軍人の履歴-期別索引
- ^ 藤田 1987, pp. 20–29, 酒と侍従
- ^ 『官報』第3783号「叙任及辞令」1896年2月12日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第6494号「叙任及辞令」1905年2月25日。
- ^ 『官報』第7640号「叙任及辞令」1908年12月12日。
- ^ 『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。
- ^ 『官報』第1624号「叙任及辞令」1917年12月29日。
- ^ 『官報』第3158号「叙任及辞令」1923年2月12日。
- ^ 『官報』第3790号「叙任及辞令」1925年4月14日
- ^ 『官報』第4045号「叙任及辞令」1926年2月20日。
- ^ 『官報』第2660号「叙任及辞令」1921年6月14日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。