伊達邦賢
伊達 邦賢(だて くにかた)は、江戸時代後期の陸奥国仙台藩一門第九席・川崎伊達家7代当主。
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 天保8年(1837年) |
死没 | 明治14年(1881年)12月3日 |
別名 | 藤松・主殿(通称)、直躬 |
主君 | 伊達慶邦 |
藩 | 陸奥仙台藩 |
氏族 | 川崎伊達家 |
父母 | 伊達邦和 |
子 | 基煕、煕信 |
生涯
編集天保8年(1837年)、川崎伊達家6代当主・伊達邦和の嫡男として誕生。
天保14年(1843年)閏9月、父・邦和の死去により、家督と知行2000石を相続し、陸奥国柴田郡川崎邑主となる。藩主・伊達慶邦の偏諱を受け主殿邦賢と名乗った。
慶応2年(1867年)4月、1000石の加増を受け知行3000石となる。慶応4年(1868年)の戊辰戦争における仙台本藩の敗戦により、先祖代々の知行地・川崎領を没収される。
明治10年(1877年)、西南戦争の際に、息子の基煕、煕信と旧臣5人を率いて徴募に応じ、大隊の指揮を執って戦う。戦後は東京に移住し、伊達伯爵家(旧藩主家)や警視庁の剣道師範を務めた。
明治14年(1881年)12月3日東京で死去。享年45。
参考文献
編集- 『仙台人名大辞書』
- 『柴田郡誌』
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