何 曾(か そう)は、中国三国時代西晋の政治家。字は穎考豫州陳国陽夏県の人。父は何夔。子は何遵何劭

何曾
西晋
太宰
出生 建安4年(199年
豫州陳国陽夏県
死去 咸寧4年12月13日279年1月12日
拼音 Hé Céng
穎考
諡号 元公
主君 曹叡曹芳曹髦曹奐司馬炎
テンプレートを表示

生涯

編集

若年にして父の爵位[1]を継いだ。学問を好み博学で、同郷の袁侃[2]とともに高名を馳せた。曹叡が平原侯の時[3]、文学となった。曹叡が帝位に即くと、散騎侍郎・汲郡[4]典農中郎将・給事黄門侍郎を歴任し、郡の太守を監査するよう上奏した。その後、散騎常侍に転任した。

景初2年(238年)、司馬懿公孫淵討伐に際し、緊急時に備えた副将を置くよう上奏した[5]。その後、河内太守を経て侍中を拝命したが、母の喪に服するため官を去った。曹爽が権勢を振るうと司馬懿は病気と称し隠遁したが、何曾もまた一緒になって病を称した。

曹爽誅殺後の嘉平3年(251年)、司隷校尉に就任[6]。撫軍校事の尹模の不正を弾劾し、称賛された。嘉平6年(254年)に魏帝曹芳廃位の謀略に参与した後、尚書に転じた[7]

当時、歩兵校尉の阮籍竹林の七賢の1人)は母の喪中に酒や肉を口にしていた。礼法に反するこの行いを憎んだ何曾は、阮籍の左遷を司馬昭に言上したが、聞き入れられなかった。

正元2年(255年)に毌丘倹が誅殺されるとその孫娘が獄に繋がれたが、母の荀氏の助命嘆願を受けた何曾は、法の改正に尽力した[8]

正元年間に鎮北将軍・都督河北諸軍事・仮節となる。さらに征北将軍・潁昌郷侯を経て、咸熙元年(264年)3月には司徒に昇進し、朗陵侯に封ぜられた。

兄の司馬師に後嗣がなかったため、その職責を継いだ司馬昭だが、自分の庶子の司馬攸を司馬師の後嗣とし、世子に立てようと考えていた。しかし何曾らが強く反対し、嫡子の司馬炎を立てるよう主張したため、司馬昭はこれに従った[9]。咸熙元年5月、司馬炎が晋王の世子となった[10]

咸熙2年(265年)9月、何曾は晋の丞相・侍中となる。12月、帝位禅譲を辞退しようとする司馬炎に、これを受諾するよう強く勧める[9]。禅譲が成ると太尉・朗陵公となり、食邑は1800戸となった。

泰始3年(267年)9月、太保となる。泰始9年(273年)5月、司徒を兼任する。咸寧2年(276年)8月、太保の位を太傅に改められる[9]

咸寧4年(278年)9月、太宰となる。老年の何曾はしばしば退官を申し出たが、何曾を信任する司馬炎はこれを許さなかった。同年12月丁未(279年1月12日)、80歳で死去。次子の何劭が、嫡子として後を継いだ。

親孝行に務め、礼儀作法に厳格だった一方、贅沢を好み、食費は日に1万銭を超えた。あまりに奢侈が過ぎるので弾劾も受けたが、司馬炎は何曾が重臣であることを理由に不問に付した。また、時の権力者である賈充に阿る面もあった。何曾の死後、博士の秦秀はその性質を憎み、諡を繆醜公と進言したが[11]、司馬炎はこれを退け、孝公とした。太康年間、何劭の上奏により、諡は元公と改められた。

出典

編集

脚注

編集
  1. ^ 陳寿三国志』魏書何夔伝では成陽亭侯、『晋書』何曾伝では陽武亭侯とする。
  2. ^ 『三国志』魏書に伝のある袁渙の長子。
  3. ^ 『三国志』魏書明帝紀によると、曹叡が平原王となったのは黄初3年(222年)だが、平原侯となった記録は見えない。
  4. ^ 西晋の時代に汲県など6県を管轄した郡で、魏の時代にはまだ存在しない。
  5. ^ 『晋書』何曾伝では、曹叡はこれに従わなかったとする。一方、『三国志』魏書明帝紀注にもこの上奏は引用され、その後『志記』によれば、毌丘倹が司馬懿の副将になったと続く。
  6. ^ 萬斯同『魏方鎮年表』
  7. ^ 『三国志』魏書斉王紀注『魏書』が引く、嘉平6年の曹芳廃位の上奏文に、司隷校尉・潁昌侯として名を連ねる。『魏方鎮年表』では嘉平6年に司隷校尉から尚書に移ったとあるが、それは曹芳廃位後の任官となる。なお『晋書』何曾伝では、潁昌郷侯叙任は後年のことで、時代が前後する。
  8. ^ 『三国志』魏書何夔伝注『晋紀』
  9. ^ a b c 『晋書』世祖武帝紀
  10. ^ 『晋書』太祖文帝紀
  11. ^ 『晋書』秦秀伝
  NODES