六角氏頼
六角 氏頼(ろっかく うじより)は、南北朝時代の武将・守護大名。六角氏4代・6代当主。
『義烈百人一首』より | |
時代 | 南北朝時代 |
生誕 | 嘉暦元年12月2日(1326年12月26日) |
死没 | 正平25年/応安3年6月7日(1370年6月30日) |
改名 | 氏頼、崇永(法名) |
別名 | 備中大夫判官、大夫判官入道、三郎(通称) |
戒名 | 慈恩寺殿雪江崇永 |
官位 | 左衛門佐、検非違使、従五位下、大夫判官、近江守 |
幕府 | 室町幕府禅律方、引付頭人、近江守護 |
主君 | 足利尊氏、義詮、義満 |
氏族 | 六角氏 |
父母 | 六角時信、長井時千娘 |
兄弟 | 氏頼、佐々木直綱、山内信詮、光綱 |
妻 | 佐々木道誉娘、藤原氏 |
子 | 義信、満高 |
生涯
編集佐々木氏嫡流の六角氏は鎌倉幕府滅亡と共に一時没落し、幕府滅亡時の当主であった父が出家したため、氏頼は建武2年(1335年)頃に幼くして家督と近江守護職を継承して当主となるも、室町幕府では庶流の京極氏の風下に立つことになった。近江国守護職をめぐり京極氏の佐々木道誉と一時争うも、佐々木道誉の娘を妻に娶るなど関係改善にも努めている。延元3年/暦応元年(1338年)、南朝の北畠顕家軍が青野原の戦いで幕府軍を破った事態を受けて、道誉と共に援軍として派遣され近江・美濃国の国境で南朝軍を迎え撃ち、興国5年/康永3年(1344年)には検非違使に任じられるなど佐々木氏嫡流としての立場を示した。その間、延元3年/暦応元年(1338年)11月5日には室町幕府初代将軍・足利尊氏の加冠によって元服し、「氏」の偏諱を受けて氏頼と名乗り、同時に左衛門佐に任ぜられ、従五位下に叙された[1]。
足利将軍家の内紛から発展した観応の擾乱では道誉と共に尊氏・高師直派に属していたが、正平6年/観応2年(1351年)1月19日に尊氏の弟の直義派が有利となると直義方に降る。しかし、高師直が殺害された後も両派の対立が再燃、双方から味方に誘われ窮地に陥り、6月25日に出家して崇永と名乗り、近江守護を辞任して家督も長男の義信に譲った。この後、近江守護に弟の山内信詮[2]・直綱や義信が選ばれたり、道誉が尊氏の嫡男の義詮から佐々木氏の惣領格に任命されている。
正平9年/文和3年(1354年)には政界復帰し、義信に代わって近江守護に復したほか、正平23年/応安元年(1368年)には禅律方・引付頭人も務めている。近江守護再任後は禅宗に帰依し、正平16年/康安元年(1361年)に寂室元光を招いて永源寺の開基となった。
しかし、家督は正平20年/貞治4年1365年に嫡男の義信が17歳で夭折[3]、京極氏から道誉の孫で嫡男の高経を猶子に迎え後見を務めた。
正平25年/応安3年(1370年)6月7日、45歳で死去[4]。近江守護は高経が引き継いだが、氏頼晩年に生まれた亀寿丸が元服して六角満高となると、近江守を解かれて京極家に戻された。
脚注
編集- ^ 『瑞石歴代雑記』に「(暦應元年)十一月十五日、江州観音寺城主、佐々木六角近江守、従五位時信嫡男、母長井宮内少輔時守女也、歳十三、元服、加冠尊氏公、乃賜諱字號氏頼、且賜太刀鎧等、依有永補綸旨、卽日任左衛門佐、敍從五位下、」〔原文ママ〕とある(『大日本史料』6-32、P.122)。「徳源院本 佐々木系図」では氏頼の元服を建武元年(1334年)3月5日(当時9歳)とする(『大日本史料』6-32、P.121)が、佐々木哲は前者を採用している(大夫判官氏頼(入道崇永)- 佐々木哲のブログ記事)。一方、新谷和之は、暦応元年9月25日に室町幕府から氏頼に充てて畠山修理亮入道による円城寺領の押領を阻止するように命じられていることから(京都府立京都学・歴彩館/東寺百合文書WEB- ヰ函/30/4/)、この時には氏頼が家督の地位にあったとしている(新谷、2022年、P59.)。
- ^ 山内定詮(後の信詮)は千手(後の義信)が幼少であったための名代で正式な守護ではない(ただし、文書の受け取る側からは守護と見なされる余地があった)とする見方もある(新谷、2022年、P59.)。
- ^ このとき次男の亀寿丸(後の満高)は生後まもなくだったという説がある。
- ^ 『後愚昧記』・『常楽記』同日条、『空華日用工夫略記』同月二十四日条、『瑞石歴代雑記』。