出羽丸岡藩(でわまるおかはん)は、江戸時代初期に出羽田川郡(現在の山形県鶴岡市)に存在した

藩史

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寛永9年(1632年)6月、幕命により肥後熊本藩主・加藤忠広改易となり、庄内藩主・酒井忠勝預かりの身となったが、このとき忠広には1万石が与えられ、丸岡藩が成立した。しかし藩としての支配機構や支配権はほとんどなく、実質は庄内藩が藩政を支配していた。しかし忠勝は忠広を哀れに想い、毎年米100俵を支給していたと言われている。正保3年(1646年)2月、忠広の居所および家臣の屋敷全てが全焼する火災があったが、京より建物を取り寄せ再建されている。

忠広は承応2年(1653年)閏6月8日に死去し、丸岡藩は廃藩となった。その後、丸岡領は幕府領および庄内藩領となった。

廃藩時の家臣は、加藤頼母、加藤主水(僧となり主君の墓守となるがのちに乱心)、谷崎采女、杉村文太夫、永原久左衛門、永原清大夫、神戸小平太、萱野正三郎、加藤左平太、永原半左衛門、松下庄兵衛、平野右衛門九郎、天野九十郎、水野長兵衛、村尾松之助、生熊九郎助の16名。翌年正月に丸岡を引き払い、鶴岡に半年滞在、庄内藩の通行手形を携帯し出羽国を後にした。また、加藤頼母、谷崎、萱野、杉村、永原久左衛門、永原半左衛門の6名は庄内藩に召抱えられた。谷崎は暇請をし、寛文11年(1671年)に肥後に戻っているが、他の者の子孫は幕末まで存続している。

歴代藩主

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加藤家

外様。1万石。

  1. 忠広(ただひろ)
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