分部光実
江戸時代中期から後期の大名。近江大溝藩8代藩主。分部家9代。従五位下・左京亮。分部光庸の長男。子に唯之助(三男、側室)
分部 光実(わけべ みつざね)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。近江国大溝藩8代藩主。分部家9代。官位は従五位下・左京亮。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦6年5月22日(1756年6月19日) |
死没 | 文化5年4月14日(1808年5月9日) |
別名 | 善次郎[1]、左京(通称)[1][2]、栖鳳・宗筠(号)[2] |
戒名 | 泰寛院殿仁峯義裕大居士 |
墓所 |
滋賀県高島市勝野の円光寺 港区赤坂の種徳寺 |
官位 | 従五位下左京亮 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
藩 | 近江大溝藩主 |
氏族 | 分部氏 |
父母 | 分部光庸、黒川氏 |
兄弟 |
光実、誠照寺庸行、秋山清章、庸久、 安部信亨正室、高木貞固室、 高木貞固後室、花房職喬継室 |
妻 |
本多正珍娘 小沢氏 |
子 |
光弘、光邦、唯之助、溝口勝匡、 池田長溥、小出英筠継室、田沼意留継室、安部信操正室、森川俊知継室、 長岡義之室、高力某養女、久留某養女 |
生涯
編集宝暦6年(1756年)6月21日[2]、7代藩主・分部光庸の長男として[2][1]、大溝にて誕生[1]。母は黒川氏[1]。
天明5年(1785年)3月10日、父が隠居したため、その跡を継いだ[1]。4月19日には初めて領国入りをするための暇が認められた[1]。天明5年(1785年)6月、藩校「修身堂」[注釈 1]を創設し[4]、中村鸞渓(中村徳勝)[注釈 2]をその長(文芸奉行)に任命した[4][6]。天明6年(1786年)12月18日、従五位下左京亮に叙任[1]。
天明8年(1788年)6月には心学者の中沢道二を登用するなどして学問発展に尽くした。また、藩内で博打などが横行して士風が緩んでいたため、博打を禁止し、厳格な法令を制定することで風紀の立て直しを図った。藩財政においても窮乏化を再建するため、自らが厳しく倹約することで見本とした。寛政3年(1791年)には大倹約令を出した[7]。
系譜
編集『寛政重修諸家譜』の記載
編集光実は『寛政重修諸家譜』編纂時の当主である。『寛政譜』の記載は以下の通り[8]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は『寛政譜』の記載順。
補足
編集- 『寛政譜』編纂時点では3男5女が記されている。正室本多氏所生とされているのが光弘・長女・次女・三女・四女(安部信操室)。五女(土方久敬婚約者)と唯之助が同母とされている[8]
- 森川俊知正室(法号は仙寿院殿天誉皓月清光貞照大法尼)については、八重という実名が伝わっており、その実母の法名は桂雲院殿心月妙鏡大禅定尼である[9]
他の情報源を勘案した子女の一覧
編集備考
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.8、『新訂寛政重修諸家譜 7』p.8。
- ^ a b c d e f g “分部光実”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2022年1月5日閲覧。
- ^ a b 膽吹覚 2008, p. 53.
- ^ a b c d 膽吹覚 2008, p. 51.
- ^ “中村鸞渓”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2022年1月5日閲覧。
- ^ a b c d e “中村徳勝”. 高島ものしり百科. 高島市立図書館. 2022年1月7日閲覧。
- ^ 「2019年大溝400年すごろく」『広報たかしま』2019年1月、16-17頁、2022年1月7日閲覧。[信頼性要検証]
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.8、『新訂寛政重修諸家譜 7』pp.8-9。
- ^ “嘉永元年(1848年)”. 祐天寺. 2022年1月5日閲覧。
参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二
- 『寛政重修諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082714/13
- 膽吹覚「近江国大溝藩脩身堂の蔵書目録」『國文學論叢』第53号、龍谷大學國文學會、2008年。 NAID 110007058787。