十七か条協定
十七か条協定(じゅうななかじょうきょうてい)は、中華人民共和国がチベット東部を軍事制圧した後、1951年5月23日、北京において締結された中華人民共和国とチベットの間の政治的取り決めである。
中央人民政府和西藏地方政府關於和平解放西藏辦法的協議 | |
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チベット政府代表による署名 | |
種類 | 和平協定[1][2][3] |
署名 | 1951年5月23日 |
署名場所 | 中華人民共和国北京中南海勤政殿 |
捺印 | 1951年5月23日 |
発効 | 1951年5月23日 |
現況 | 1959年に失効 |
署名国 | 政務院秘書長 李維漢 チベット工作委員会第一書記 張経武 チベット工作委員会第二書記 張国華 西南軍政委員会秘書長 孫志遠 主席大臣 ンガプー・ンガワン・ジクメ チベット軍馬基 ケメイ・ソナムワンデイ 仲譯欽布 トゥプテン・タンダル 堪窮 トゥプテン・レタムン 代本 サンポ・テンゼントンドプ |
締約国 | 中国中央人民政府 チベットラサ政府 |
寄託者 | チベット自治区公文書館 |
言語 | 中国語、チベット語 |
中央人民政府和西藏地方政府關於和平解放西藏辦法的協議 - Wikisource |
十七か条協定 | |||||||||||
中国語 | |||||||||||
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繁体字 | 中央人民政府和西藏地方政府關於和平解放西藏辦法的協議 | ||||||||||
簡体字 | 中央人民政府和西藏地方政府关于和平解放西藏办法的协议 | ||||||||||
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別名 | |||||||||||
繁体字 | 十七條協議 | ||||||||||
簡体字 | 十七条协议 | ||||||||||
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チベット語 | |||||||||||
チベット文字 | བོད་ཞི་བས་བཅིངས་འགྲོལ་འབྱུང་ཐབས་སྐོར་གྱི་གྲོས་མཐུན་དོན་ཚན་བཅུ་བདུན་ | ||||||||||
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正式呼称は中央人民政府と西藏地方政府のチベット平和解放に関する協議(ちゅうおうじんみんせいふとせいぞうちほうせいふのチベットへいわかいほうにかんするきょうぎ)。十七か条の条文を有することから、「十七か条協定」と略称される。
概要
編集1912年以来、チベット政府(ガンデンポタン)が求めてきた、中国とは別個の独立国としての国際的地位の確立、ガンデンポタンによるチベット全土の統治の主張を放棄させ、中華人民共和国によるチベットの併合を「祖国大家庭への復帰」、「チベット解放」「チベット併合」と位置づけ、西蔵などを含むチベットの全土を「中国の地方」としつつ、ガンデンポタンを西蔵部分のみの統治を担う「西蔵地方政府」と位置づける内容を有する。一方で、引き続きガンデンポタンによる民族自治の保証、「西蔵」(チベットのうち、清朝期以来ガンデンポタンにより確保されてきた部分に対する中国語の呼称)における現行政治制度の維持、「中央政府」が改革を強要しないこと、ダライ・ラマの地位および職権の保証、宗教信仰と風俗習慣の尊重と寺院の保護、チベット語の尊重と独自教育の発展、各種改革への中央政府の不干渉、人民解放軍による国防強化
この協定には、チベット政府(ガンデンポタン)が中国によるチベットへの進軍を停止するよう交渉するため北京に派遣したンガプー・ンガワン・ジクメをはじめとする使節団がこれに署名した。協定の原本には、中国側全権とチベット側署名者の、個人印が押されているが、「中国の国璽」、「チベットの国璽」にあたる印章の印影はみあたらない。
この「国璽」に関連して、チベット政府は、アボ・アワン・ジグメが協定締結時に使用した国璽はチベット政府の正式な国璽ではなくアボが事前に偽造した国璽であり協定締結はされていないと主張した。その一方で中国政府はアボの持参した国璽はチベットの正式なものであるとした見解の上、協定は締結されたと主張した。
ところが、ダライ・ラマ14世の姉婿であるプンツォク・タクラ氏(当時の代表団の1人)は次のように言う[4]。
「我々は・・チベット政府の印鑑を持参していないのでラサから取り寄せる間待って欲しいと中共当局に言った。・・中共側は「その必要はない、印鑑は当方で用意するから・・」と言った
つまり中国側はことさらに偽物のハンコを押させたのではなく、親切心からハンコを用意したに過ぎないのである。
しかしチベット議会がこれを認めなかったため、当時チベット議会で中国への併合について意見が分かれていたとされる内中国併合賛成派のアボはダライ・ラマ14世に対して離反を行い中国側につき、以降彼らはチベット議会に参加しなくなった(アボはチベット政府内や住民の中国併合賛成派を集め、親衛隊を組織されたともされている)
この後、中国の中国人民解放軍はチベットの首都ラサに侵攻、チベット軍と交戦状態に陥る。これによりダライ・ラマ14世に十七か条協定を承認させた(この際、一部の中国併合反対派の者は逃亡したとされこの時からダライ・ラマ14世の亡命先インドでの亡命政府規律の準備や手続きが既に行われていたとする見方もある)。協定締結後、それに伴って、同協定第八条によりチベット軍は中国人民解放軍に編入された。以降元チベット軍兵士や兵器は、暫くの間チベット地域内に配属されていたとされるが、年々中国人民解放軍内に分散されていき、元チベット軍の施設も、博物館や展示物などに改装されているもの以外は近代化に伴い建て替えなどが進んでいるため現在はチベット地域に残るチベット軍の遺構は極めて少ない。
1959年、ダライ・ラマ14世はラサを脱出、インドへ亡命した。その途上、国境の手前でダライ・ラマ14世はチベット臨時政府の発足と十七か条協定の正式破棄を宣言した。これにより、中国側も国務院総理周恩来の名義で「原西藏地方政府を廃止した」と布告し、これより十七か条協定は消滅した。
このことからダライ・ラマ14世は17条協定に反対していたように思えるが、当時のダライ・ラマ14世本人が17条協定に進んで賛同していた公文書が残っている。
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1951年5月24日、毛沢東、ンガプー・ンガワン・ジクメ
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1951年5月23日、十七か条協定の署名式
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1951年5月24日、パンチェン・ラマ10世、毛沢東、ンガプー・ンガワン・ジクメ
十七か条協定
編集脚注
編集- ^ 達拉·平措扎西 (5 October 1992). Historical Sino-Tibetan Relations, 1949-1951 and the Seventeen-Point Agreement. The Potomac Conference - Sino-Tibetan Relations: Prospects for the Future. 2019年10月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年8月29日閲覧。
- ^ “白玛赤林:《十七条协议》不存在被迫签订的问题”. 2011年5月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年5月19日閲覧。
- ^ Гарри И.Р. (2009). «Буддизм и политика в Тибетском районе КНР (II половина XX — начало XXI вв.)». オリジナルの2020-04-22時点におけるアーカイブ。 2019年9月14日閲覧。
- ^ “チベット平和解放は侵略だという嘘”. xizang.is-mine.net. 2024年8月14日閲覧。