吉川広正
吉川 広正(きっかわ ひろまさ)は、江戸時代前期の岩国領2代領主。父は初代領主の吉川広家。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長6年2月17日(1601年3月21日) |
死没 | 寛文6年5月5日(1666年6月7日) |
改名 | 長熊丸(幼名)、広正 |
別名 | 又次郎、左介(通称) |
戒名 | 浄性院鉄堂宗閑 |
墓所 | 山口県岩国市横山の洞泉寺 |
官位 | 美濃守、内蔵助 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 毛利秀就、綱広 |
藩 | 周防岩国領主 |
氏族 | 藤原南家工藤流吉川氏 |
父母 | 父:吉川広家、母:若林藤兵衛の娘 |
兄弟 | 広正、毛利就頼、益田就宣正室 |
妻 |
正室:竹姫 側室:有福氏、植村与三右衛門の娘 |
子 | 夏姫、広嘉、就紀、娘(毛利就信正室)、娘(毛利就詮正室) |
生涯
編集慶長6年(1601年)2月17日、吉川広家の長男として、周防国由宇村館にて生まれた。
慶長19年(1614年)に元服後、京都二条城にて徳川家康・秀忠親子に御目見した。形式上は家督を継承したが、まだ若年すぎたため父の広家が藩政を後見した。
元和2年(1616年)7月19日、毛利輝元の長女・竹姫を正室に迎えた。
寛永2年(1625年)9月21日、父の広家が死去すると、独自の領内統治を開始する。
寛永17年(1640年)には紙に関する法を定めて紙の製造を保護して専売制度を設け、岩国領の経済・財政の有力な柱とした。また錦川のデルタ地帯を積極的に干拓して新田の開発を行う等、領内の経済的基礎を作り上げた。このほか瀬田八幡宮を再興している。
寛永9年(1632年)から毛利秀元に代わって長州藩の執政を務め、程なく辞するものの毛利綱広の長州藩主就任時に再度江戸幕府より後見に任じられている。
明暦3年(1657年)には現在の錦帯橋の元となる橋を建築するが、万治2年(1659年)の大雨で流出した。