吉田英三
吉田 英三(よしだ ひでみ/えいぞう[1]、1902年(明治35年)3月5日 - 1978年(昭和53年)4月24日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。初代自衛艦隊司令。最終階級は海軍大佐、海将。
第1船隊群司令当時の吉田(1953年) | |
生誕 |
1902年3月5日 日本 福島県 |
死没 |
1978年4月24日(76歳没) 日本 東京都 |
所属組織 |
大日本帝国海軍 海上保安庁 海上警備隊 警備隊 海上自衛隊 |
軍歴 |
1919年 - 1945年(帝国海軍) 1952年 - 1954年(警備隊) 1954年 - 1958年(海自) |
最終階級 |
海軍大佐(帝国海軍) 海将(海自) |
経歴
編集農業を営む吉田蔵之介の三男として生まれる。旧制福島県立磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)を経て、海軍兵学校第50期入校。1922年(大正11年)6月、海軍兵学校卒業。海軍大学校(甲種32期)卒業。海軍での最終階級は海軍大佐(軍務局第三課長)。
終戦に伴い旧海軍省は解体されたが、復員に必要な人事情報に精通していたため、第二復員局に引き続き勤務。この頃から、職務上接していた情報と人脈を用い、勤務時間外に「新海軍」再建計画を画策する。のち「一般該当者」として公職追放となる[2]。
日本政府にこの「新海軍」の素案を提示するが相手にされず、朝鮮戦争直後、代わって今度は野村吉三郎と共にアメリカ政府に同案を働きかけ好感触を得る。
その後、海上自衛隊創設の主要メンバー(通称「Y委員会」)となる。海上保安庁海上警備隊横須賀地方監部長(現・横須賀地方総監)を経て、第1船隊群司令、自衛艦隊司令を歴任した。
内閣憲法調査会の「憲法運用の実際についての第三委員会」の参考人に選任された際には、前自衛艦隊司令の経験から、「実際の経験から、自衛隊を精強な部隊たらしめるためには、名分だけは何とか国家の象徴たる天皇を最高指揮官たらしめることが最善である」という意見を述べている[3]。
年譜
編集- 1919年(大正 8年)8月:海軍兵学校入校
- 1922年(大正11年)6月:海軍兵学校卒業(第50期)
- 1923年(大正12年)9月:海軍少尉任官
- 1925年(大正14年)12月:海軍中尉
- 1927年(昭和 2年)12月:海軍大尉
- 1928年(昭和 3年)12月:海軍水雷学校高等科卒業
- 1929年(昭和 4年)4月:ドイツ駐在(- 1931年4月)
- 1931年(昭和 6年)
- 1933年(昭和 8年)11月:海軍少佐
- 1934年(昭和 9年)
- 1935年(昭和10年)10月:「睦月」駆逐艦長
- 1936年(昭和11年)11月:第一水雷戦隊参謀
- 1937年(昭和12年)12月:軍令部第3部第7課部員
- 1938年(昭和13年)11月15日:海軍中佐[4]
- 1939年(昭和14年)11月15日:第二水雷戦隊参謀[5]
- 1941年(昭和16年)
- 1943年(昭和18年)
- 1944年(昭和19年)
- 1945年(昭和20年)2月25日:軍務局第1課付
- 1947年(昭和22年)5月27日:復員庁第二復員局資料整理部長[18]
- 1948年(昭和23年)1月1日:復員局第二復員局残務処理部資料課長
- 1952年(昭和27年)
- 1953年(昭和28年)4月1日:第一船隊群(現・第1護衛隊群)司令兼ねて第三船隊群司令
- 1954年(昭和29年)
- 7月1日:海将に任命、初代自衛艦隊司令兼ねて第1護衛隊群司令
- 9月20日:第3代 横須賀地方総監(再任)
- 1958年(昭和33年)
- 6月1日:練習隊群司令
- 12月19日:退官
- 1972年(昭和47年)4月29日:勲二等瑞宝章受章[20]
- 1978年(昭和53年)4月24日:東京都内の自宅にて慢性気管支炎による心臓衰弱のため逝去(享年76)[21]、叙・正四位[22]。
栄典
編集脚注
編集- ^ 名字の「吉」の正確な表記は「 」(「土」の下に「口」、つちよし、U+20BB7、「𠮷」)である。また、「英三」(ひでみ)は「えいぞう」とも読まれていたようである。
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、766頁。NDLJP:1276156。
- ^ 憲法調査会 『憲法調査会報告書』 大蔵省印刷局 p.153
- ^ 「昭和13年11月15日 海軍辞令公報号外(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074500
- ^ 「昭和14年11月15日 海軍辞令公報(部内限)第402号(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700
- ^ 「昭和16年8月15日 海軍辞令公報(部内限)第691号(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081700
- ^ 「昭和16年10月11日 海軍辞令公報(部内限)第726号(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082700
- ^ 「昭和18年5月1日 海軍辞令公報(部内限)第1103号(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090800
- ^ 「昭和18年5月1日 海軍辞令公報(部内限)第1106号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090800
- ^ 「昭和18年7月10日 海軍辞令公報(部内限)第1169号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092100
- ^ 「昭和19年4月1日 海軍辞令公報(部内限)第1401号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072097000
- ^ 「昭和19年8月8日 海軍辞令公報(部内限)甲 第1557号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100400
- ^ 「昭和20年4月28日 海軍辞令公報 甲 第1785号(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072104500
- ^ 「昭和20年7月6日 海軍辞令公報 甲 第1848号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072105900
- ^ 「昭和20年7月19日 海軍辞令公報 甲 第1861号(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072106200
- ^ 「昭和20年12月21日 第二復員省辞令公報 甲 第18号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072162100
- ^ 「昭和20年12月8日 第二復員省辞令公報 甲 第7号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072162000
- ^ 「昭和22年6月6日 復員庁第二復員局辞令公報 第37号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072160600
- ^ 『官報』本紙第7613号(昭和27年5月27日)
- ^ 『官報』本紙第13607号(昭和47年5月4日)
- ^ 毎日新聞・1978年(昭和53年)4月25日(火)第23面
- ^ 『官報』本紙第15396号(昭和53年5月13日)
参考文献
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