埼玉郡
日本の埼玉県(武蔵国)にあった郡
郡域
編集現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。
歴史
編集- 「埼玉」の県名の由来と考えられている。現在の埼玉県東部を南北に貫く(八潮から羽生、行田周辺まで)広い地域で、大落古利根川と元荒川に挟まれ、利根川東遷事業までは武蔵国東端だった。郡衙の位置は熊谷市の北島遺跡が有力視されている[1]。
- 埼玉古墳群のある行田市埼玉(さきたま)や、隣接する前玉神社(延喜式神名帳で埼玉郡筆頭)が郡名の由来とされる[2]。
- 534年、武蔵国造の乱に登場する笠原直使主の本拠地(笠原郷、現在の鴻巣市)とされ、一時的ながら国府も置かれた。
- 771年、武蔵国が東山道から東海道に所属変更となる。
- 938年、和名類聚抄には東海道武蔵國の郡名として埼玉郡が記されている。
- 平安時代後期から鎌倉時代 武蔵七党の野与党が勢力を伸ばす。
- 中世には東西に分割され、騎西郡(寄西郡・埼西郡とも)と騎東郡(荘園名としては太田荘)に分割されていた。従来の研究では東西の境目は元荒川と考えられてきたが、江戸時代初期に行われた利根川や荒川の大改修で付近一帯の河川の流路が大きく変わっているとする筈だとする観点から見直しが行われた結果、現在では歴史河川である日川(にっかわ)が境界線であったと考えられている。日川は江戸時代初期に北側が新川用水の一部とされて備前前堀川に繋げられるなど大きな流路の変更が加えられたために東西境界としての役目を果たせなくなった(水量が減少した南側は18世紀には水田化される)。このためか、寛永年間には騎東郡は用いられなくなり、騎西郡も公文書からは姿を消すことになる[3]。
- 現在の越谷市の元荒川左岸側が慶長17年(1612年)以前まで下総国葛飾郡に所属していた[4]。
- 明治初期の村誌(のち武蔵国郡村誌)には、10町、4郷、4組、2宿、378村、18新田が記載[5]されている。
沿革
編集- 所属町村の変遷は北埼玉郡#郡発足までの沿革、南埼玉郡#郡発足までの沿革をそれぞれ参照
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での、当郡域18町433村[6]の支配は以下の通り。他にも寺社領、寺社除地が各村に散在。
- 慶応4年
- 明治元年
- 明治2年
- 明治4年
- 明治5年4月9日(1872年5月15日) - 大区小区制により町村が廃止され、大区と小区に再編成される。主な大区には、二区(越ヶ谷付近)、五区(粕壁付近)、九区(久喜付近)、十区(菖蒲付近)、十一区(加須付近)、十二区(不動岡付近)、十三区(羽生付近)、十四区及び十五区(忍付近)、十六区(埼玉村・広田村付近)、二十区(岩槻付近)が存在した。
- 明治12年(1879年)3月17日 - 郡区町村編制法の埼玉県での施行により[7]、岩槻町ほか6町218村の区域に南埼玉郡、成田町(忍)ほか5町188村の区域に北埼玉郡がそれぞれ行政区域として発足。同日埼玉郡消滅。
参考文献
編集- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 11 埼玉県、角川書店、1980年7月1日。ISBN 4040011104。
- 旧高旧領取調帳データベース
- 埼玉県市町村合併史 上・下巻 埼玉県地方課監修
- 埼玉県市町村誌
脚注
編集- ^ 埼玉県熊谷市埋蔵文化財調査報告書第5集 20ページ埼玉県熊谷市教育委員会
- ^ 武蔵国・前玉神社(さきたまじんじゃ)埼玉県名発祥の古社前玉神社
- ^ 林貴史「騎西郡と騎東郡の領域について-境界としての日川」(初出:『八潮市史研究』13号、八潮市立資料館、1993年/所収:新井浩文 編著『旧国中世重要論文集成 武蔵国』戎光祥出版、2023年 ISBN 978-4-86403-463-0)2023年、P354-368.
- ^ a b 武井 尚 (1993). 「近世初頭の国境の移動と流路」『中川水系 Ⅲ人文』、117-120頁. 埼玉県
- ^ 武蔵国埼玉郡村誌 埼玉県立浦和図書館
- ^ 村数の数え方には諸説あり、「角川日本地名大辞典」の記述では「旧高旧領取調帳」では19町421村、27万4,658石とある。
- ^ 郡役所半世紀の光芒 郡長たちのアーカイブズ埼玉県立文書館]
関連項目
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行政区の変遷 - 1879年 |
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