堀池 春峰(ほりいけ しゅんぽう、本名:堀池 義也(よしや)、1918年(大正7年)12月8日 - 2001年(平成13年)8月31日)は、東大寺の僧、職員、仏教学者、古文書研究者、大学講師・教授。東大寺史研究所長。

略歴

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1918年(大正7年)12月8日、東大寺修二会の三役の一つの会計職などの「小綱」(しょうこう)[注釈 1]を代々、務めてきた堀池家に長男として生まれる。1936年(昭和11年)3月、旧制奈良県立奈良中学校(現・奈良県立奈良高等学校)を卒業。同年4月6日、雲井春海東大寺管長のもと得度し、僧名を春峰とする。翌年2月に東大寺小綱職となり、1980年までほぼ毎年、同寺二月堂の修二会(お水取り)に42回参籠する。特に物資不足の戦中戦後に用度担当者として食糧や資材の確保、人員調達に奔走し、修二会の中断を防いで評価が高い。1940年、東大寺発行の雑誌『華厳』の編集委員に就任。同年3月、修二会参籠中に応召され、紙衣のまま送りだされ7月傷病除隊する。1948年3月、京都大学文学部国史学専攻を卒業し、同年4月、京都大学文学部大学院(旧制)に入学する。1951年から1965年7月まで、文化財保護委員会の依嘱で、奈良県京都市滋賀県和歌山県の寺院所蔵の仏典・文書の調査に従事して仏教調査の基礎を確立する。そして、高山寺醍醐寺などの古文書研究で業績を残した。1953年4月から2001年3月まで奈良国立文化財研究所の非常勤調査員となる。1961年5月、東大寺図書館司書となり、1964、1966〜1968年関西大学文学部非常勤講師、1965年奈良女子大学文学部非常勤講師、1970〜1988年、奈良大学文学部客員教授(古文書学)になる。1985年に東大寺史研究所長に就任する。2001年8月31日午前9時、骨盤内腫瘍のため奈良市内の病院で死去した。享年82。

1952年、奈良県綜合文化調査委員となり、1966年、奈良市文化財審議委員、東寺百合文書査定委員、1989年、奈良文化財委員となる。その後、奈良国立博物館評価委員をたびたび勤める。

1965年に全真言宗文化賞を受賞、1977年には「古代朝鮮・日本仏教文化交渉史の研究」で朝日新聞文化賞を受賞する。2000年には文化財保護法五十年特別功労者文部大臣表彰を受けた。(以上[2][3]

著作

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  • 奈良の大仏(歴史絵本) 堀池春峰 監修、文:山本和子、画:村上正師善本社、2005年11月
  • 南都仏教史の研究 東大寺 監修 法蔵館 2004年3月
  • 東大寺史へのいざない 東大寺 監修 堀池春峰、編:東大寺史研究所、昭和堂、2004年4月
  • 東大寺文書を読む 堀池春峰 監修、編:綾村宏永村眞湯山賢一思文閣、2001年6月
  • 絵本 奈良の大仏 堀池春峰 監修、文:山本和子、画:村上正師、善本社、2000年10月
  • 東大寺お水取り 二月堂修二会の記録と研究 堀池春峰・著者代表、小学館、1996年5月
  • 中世寺院史の研究 中世寺院史研究会 編、法蔵館、1988年3月
  • 霊山寺と菩提僧正記念論集 堀池春峰 編、大本山霊山寺[要曖昧さ回避]、1988年5月

共著

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  • 「奈良の頭塔について」『南都仏教史の研究〈下〉諸寺篇』 法蔵館 1982年

脚注

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注釈

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  1. ^ 法会の会計と法務下役を担当する。かつては、「算数の小綱」、「行事の小綱」、「木守」とそれぞれ別役だった。法務では、「大臣の中祓」など夜の行事の際に松明で照らしたり周辺の様々な用務をこなす。[1]

出典

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  1. ^ 『東大寺お水取り 春を待つ祈りと懺悔の法会』「表2 参籠衆の構成」P.69 佐藤道子 朝日選書 2009年
  2. ^ 『日本美術年鑑』2002年(平成14年)版、P.244-245
  3. ^ 『東大寺お水取り 二月堂修二会の記録と研究』構成・守屋弘斎 所収、守屋弘斎「序」P.4、堀池春峰「観音信仰と修二会」P.185-186、橋本聖準「長老聞き書き2」P.207-208、小学館 1996年

関連項目

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外部リンク

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