天津租界(てんしんそかい)とは、1860年から1947年のあいだ、イギリスフランスドイツ日本アメリカイタリアロシアオーストリア=ハンガリーベルギーなどの国が不平等条約や協定を通じて中国天津旧市街の南東部に行政自治権と治外法権を設定した租借地である。

各租界の地図

概要

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1860年、イギリスがまず他に先駆けて天津租界を設立した。1896年に日清戦争後に日本租界が設立される。1919年には第一次世界大戦に敗北したドイツ租界とオーストリア=ハンガリーの租界が返還される。最大で9ヶ国が天津に租界を設立しており、第二次世界大戦中も日本やイタリアにより管理されていた。

1945年8月に中華民国第二次世界大戦に勝利したのち、1947年に正式に天津の最後の二つの租界が回復され、天津租界の歴史は終結した。天津租界その後も西洋文化と中国伝統、地域文化を併せ持ち、天津の多元的な文化の重要な部分を担っている。回復後も各国の様式の建築がある程度残り、旧市街地域は今日に至るまで百年前の風格を留めている。

沿革

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麻薬密売

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関東庁事務官であった藤原鉄太郎の1923年2月付の報告である「阿片制度調査報告」には、天津に於ける阿片等の麻薬取り締まりは杜撰で、密輸入が極めて多いと記されている。天津に在住する日本人5千名の七割はモルヒネその他の禁制品取引に関係を有し、薬種問屋はもとより、料理屋、雑貨屋ことごとく皆モルヒネの現物大取引をなし、居留地に於ける日本人の繁栄はモルヒネ取引の結果であり、徹底的に取り締まれば天津から日本人がいなくなる、とまで書かれた。余りにも阿片が蔓延し過ぎていたので、本来阿片を取り締まるべき立場だったにも拘わらず日本の天津領事官は中国側の海関に発覚した場合を除いて事態を黙認するか、寛容な取り締まりしか行わなかった。1934年4月には居留民団の財源確保の為に、税金を払えば阿片吸引を黙認する「煙館制度」を実施して収入を得たが、この制度は中国側から見れば居留民団を監督すべき総領事館が麻薬取引を公認したと看做され、煙館、青幇、警察官、不良日本人との間に多くの弊害を生み出した[2]

脚注

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  1. ^ 租界出入に厳重な検問を開始『東京日日新聞』(昭和13年12月15日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p446 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  2. ^ 小林元裕『第8章 : 天津のなかの日本社会』東方書店、1999年6月http://id.nii.ac.jp/1608/00000441/ 
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