姫路駐屯地
座標: 北緯34度51分36秒 東経134度42分07秒 / 北緯34.859876497180736度 東経134.70182418823242度
姫路駐屯地(ひめじちゅうとんち、JGSDF Camp Himeji)は、兵庫県姫路市峰南町1-70に所在し、中部方面特科連隊本部等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地である。
姫路駐屯地 | |
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位置 | |
所在地 | 兵庫県姫路市峰南町1-70 |
概要 | |
駐屯地司令 | 中部方面特科連隊長 兼務 |
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開設年 | 1951年 |
概要
編集沿革
編集戦前・戦中
1896年(明治29年)、水上村白国(現・姫路市白国)・城北村平野(現・姫路市北平野)・城北村伊伝居(現・姫路市伊伝居)にまたがって兵営等および城北練兵場の設置が決定する[1]。この際に敷地内にあった、「飾磨のかちん染め」伝説[2]の元となった長者屋敷・人見塚が取り壊される[3]。また「飾磨」の由来は駐屯地内にあった「飾万」という字名による[4]。
1897年(明治30年)10月に旧陸軍の野砲兵第10連隊と騎兵第10連隊(のち捜索第10連隊)、輜重兵第10大隊(のち輜重兵第10連隊)が駐屯[5]して以来、第二次世界大戦終結まで第10師団隷下部隊が使用していた[6][7]。
1903年(明治36年)には播州平野における陸軍特別大演習に際して明治天皇の行幸がある。また1921年(大正10年)以後満州事変まで、城北練兵場にしばしば飛行機が飛来していた[1]。
戦後
終戦後、城北練兵場跡に姫路競馬場が設置され、海外からの引揚者や旧軍人のために解放され、農地化される(のちに住宅地化して城北新町、広峰)。兵舎跡は進駐軍が駐留したのち一時期は姫路市立増位中学校や兵庫青年師範学校、県立聾学校(現・兵庫県立姫路聴覚特別支援学校)の敷地として利用された(捜索第10連隊跡地に設けられた姫路市立広嶺中学校および姫路市立広峰小学校は以後も同地に所在している)[8][9][10]。
1951年(昭和26年)2月に警察予備隊先遣部隊が善通寺駐屯地から到着して姫路駐屯地として開庁される。同年4月に特科第63連隊が発足して以来、幾多の改編を経て現在に至る。また第10特科連隊や第13特科連隊はこの地で新編され、中部方面隊管内に所在する特科部隊の源でもあった[7]。
警察予備隊姫路駐屯地
保安隊姫路駐屯地
陸上自衛隊姫路駐屯地
- 1954年(昭和29年)
- 7月1日:陸上自衛隊が発足。第63連隊が第3特科連隊に改編。
- 9月25日:
- 第2特科群隷下の第110特科大隊が編成完結。
- 第6特科連隊第2特科大隊が編成完結。
- 10月29日:第6特科連隊第2特科大隊が秋田駐屯地に移駐。
- 1957年(昭和32年)
- 2月1日:第10特科連隊が編成完結。
- 3月5日:第10特科連隊が大久保駐屯地に移駐。
- 1958年(昭和33年)3月25日:第110特科大隊が南仙台駐屯地に移駐。
- 1962年(昭和37年)1月18日:第13師団創設に伴い、第13特科連隊が第3特科連隊から分離独立して編成完結。
- 1965年(昭和40年)
- 1971年(昭和46年)3月25日:第13特科連隊主力が日本原駐屯地に移駐。
- 1992年(平成 4年)3月27日:第3特科連隊第特科6大隊が第3高射特科大隊として分離独立。
- 2006年(平成18年)3月27日:第3師団の政経中枢型師団への改編。
駐屯部隊
編集中部方面隊隷下部隊
編集- 中部方面特科連隊
- 中部方面特科連隊本部
- 本部中隊
- 情報中隊
- 第1特科大隊
- 第3師団
- 中部方面後方支援隊
- 第308特科直接支援中隊:中部方面特科連隊を支援
- 中部方面会計隊
- 第352会計隊
- 姫路派遣隊
- 第352会計隊
- 中部方面システム通信群
- 第104基地システム通信大隊
- 第318基地通信中隊
- 姫路派遣隊
- 第318基地通信中隊
- 第104基地システム通信大隊
- 姫路駐屯地業務隊
防衛大臣直轄部隊
編集過去の駐屯部隊
編集最寄の幹線交通
編集展示品
編集駐屯地には屋外展示品として以下のものがある。
- 75式130mm自走多連装ロケット弾発射機
- 75式自走地上風測定装置
- 35mm2連装高射機関砲 L-90
- 74式自走105mmりゅう弾砲
- 75式自走155mm榴弾砲
- 58式105mm榴弾砲
- 58式155mm榴弾砲
かつて存在した以下の展示物は2011年頃に撤去された模様。
また、資料館があり旧日本帝国陸軍第10師団に属していた歩兵第39連隊[16]や沿革の節で触れた諸連隊に関連する資料、三十一年式速射砲、警察予備隊から自衛隊に至る関連資料などが展示されている。駐屯地敷地はかつての陸軍兵営地であり、敷地内には旧陸軍時代の衛兵詰所や兵舎など、多数の当時の建物が現存している。歩兵第39連隊の軍旗の一部が持ち帰られ1965年(昭和40年)より当駐屯地資料館内に安置され、軍旗奉賛会による軍旗祭も行われていたが、同会解散を機に1998年(平成10年)に靖国神社の遊就館へ移されている[17]。
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屋外展示されるF-86Fセイバージェット戦闘機(2011年に撤去)
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敷地内に残る旧陸軍時代の衛兵詰所
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資料館前に展示される三一式速射野砲
行事
編集重要施設
編集- 姫路第一発電所(出力144.2万kW。LNG)(姫路市)
- 姫路第二発電所(出力255.2万kW。LNG)(姫路市)
- 相生発電所(出力112.5万kW。石油)(相生市)
- 赤穂発電所(出力120.0万kW。石油)(赤穂市)
- 西播変電所(超高圧変電所)(相生市)
- 新加古川変電所(超高圧変電所)(加古川市)
- 南赤穂変電所(超高圧変電所)(赤穂市)
- 別所変電所(一次変電所)(神戸市西区)
- 東播変電所(一次変電所)(加古郡稲美町)
- 大阪ガス姫路製造所(姫路市)
- 神戸製鋼所(自動車用弁バネ材の世界シェア50%強を生産している)(高砂市)
- 帝国電機製作所(キャンドモータポンプの世界シェアの約40%を生産している)(たつの市)
- 日本製鉄瀬戸内製鉄所広畑地区(姫路市)
- 大型放射光施設SPring-8(ナノテクノロジー研究開発施設)(佐用郡佐用町)
脚注
編集- ^ a b 角川地名 1988, p. 1287.
- ^ 「かち染め」「かっちん染め」とも。熊太郎なる者が人見塚に見張りを立たせ、見つけた旅人を長者屋敷に泊めて殺害しその血で染め物をしたという伝説。
- ^ 姫路と駐屯地の歩み 2022, p. 32.
- ^ ふるさと白国 1987, p. 91.
- ^ ふるさと白国 1987, p. 75-77.
- ^ 姫路と駐屯地の歩み 2022, p. 21-26.
- ^ a b 第3師団だより 第12号 ウンチク駐屯地 ~姫路駐屯地~2010年5月号
- ^ 姫路市史第6巻 2016, p. 311-318.
- ^ “沿革”. 姫路市立増位中学校. 2024年3月11日閲覧。
- ^ 角川地名 1988, p. 501.
- ^ 朝雲新聞社編集局 編『陸上自衛隊20年年表』朝雲新聞社、1971年9月20日。
- ^ 姫路と駐屯地の歩み 2022, p. 30-31.
- ^ 『北の駐屯地 その歩み 第20回 函館駐屯地』あかしや 第720号、2015年8月24日。
- ^ 防衛庁発令(1佐人事)2006年3月27日付2024年5月3日閲覧。
- ^ 防衛省発令(1佐職人事)2024年3月21日付
- ^ 歩兵第39連隊の兵営地は姫路城中曲輪内であった。
- ^ “姫路・歩兵第39聯隊軍旗を靖國神社に奉納”. 偕行 (偕行社) 平成11年1月通巻577号: 17-18. (1999).
参考文献
編集- 陸上自衛隊姫路駐屯地広報班 編『姫路と駐屯地の歩み』姫路駐屯地創立70周年記念誌発行委員会、2022年3月。
- 『ふるさと白国』白国自治会、1987年 。
- 歩兵第三十九聨隊史編集委員会 編『歩兵第三十九聨隊史』歩兵第三十九聨隊軍旗奉賛会、1983年。
- 『野砲兵第十聯隊戦没者追悼記念誌』野砲兵第十聯隊比島戦友会、1994年。
- 『角川日本地名大辞典 28 兵庫県』角川書店、1988年、501-502、1287、1907頁。ISBN 4040012801。
- 姫路市史編集専門委員会 編『姫路市史 第6巻 本編 近現代3』姫路市、2016年。
関連項目
編集外部リンク
編集- 第3特科隊 - 姫路駐屯地公式サイト
- 姫路駐屯地 (@CampHimeji_PR) - X(旧Twitter)