小倉末
小倉 末(おぐら すえ[1]、1891年2月18日 - 1944年9月25日[2])は岐阜県大垣市出身の日本のピアニスト。東京音楽学校(現東京芸術大学)教授。戦前日本を代表する女流ピアニストである。
小倉 末 | |
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基本情報 | |
別名 | 小倉 末子(おぐら すえこ) |
生誕 |
1891年2月18日 日本 岐阜県大垣市 |
死没 | 1944年9月25日(53歳没) |
学歴 | |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ピアニスト |
生い立ち
編集小倉末は、1891年に小倉周一(元大垣藩士小寺専助五男)、紫登の三女として生まれた[3]。幼い頃からドイツ人の義姉マリアよりピアノの手ほどきを受け、1910年3月に神戸女学院を卒業 (4期) した。その前後ですでに演奏活動を行っており、1905年から1911年までに東京音楽学校に学び、その間学内外で演奏を行った記録が残っている。
また、末は「日本最初の婦人ゴルファー」[4]ともいわれている。15歳の時にゴルフ場を作ったアーサー・ヘスケス・グルームの持つ山荘で休憩する姿の写真が、神戸の六甲ゴルフ倶楽部のアルバムに「Miss sueko ogura」の書き込みと共に残されている。[3]
学生時代
編集1911年に東京音楽学校に入学し、ルドルフ・ロイターの指導を受けるが、ロイターは末の才能を賞賛して留学を勧め[5]、同年11月にドイツのベルリン王立音楽院(現ベルリン芸術大学)に留学した。ベルリンではカール・ハインリヒ・バルトにピアノを師事し、2年ほど学んだが、1914年に第一次世界大戦の勃発によりアメリカ合衆国に渡る。
教師時代
編集アメリカに渡り、当初はニューヨークで演奏活動をしていた。そのなかで、1914年10月14日にカーネギーホールの室内楽ホール(現在のワイル・リサイタル・ホール)でGranperry Piano Schoolが開いたピアノリサイタルで演奏した記録が残っている。これは日本人がカーネギーホールで演奏した中で最も古いものである可能性がある[3]。
その後シカゴに移りメトロポリタン音楽院(現在は閉校)の教授として招聘された。
1916年4月に日本に戻り、翌1917年からは教授に任命され、多数の演奏会を開催した。1944年6月に音楽学校刷新に併せて辞表を出すまでその職を務めた。その数ヶ月後の1944年9月25日に亡くなっている。1937年に勲四等瑞宝章を受章[6]。墓所は多磨霊園。
著書
編集- 新選ピアノ名曲集 (1932)
脚注
編集- ^ 戸籍名は末。演奏者名としては子をつけて通常小倉末子と記されている。
- ^ 「小倉末子」『日本の演奏家 ―クラシック音楽の1400人』大高利夫、日外アソシエーツ株式会社、2012年7月25日、133頁。ISBN 978-4-8169-2373-9。
- ^ a b c 津上 智美、橋本 久美子、大角 欣矢『ピアニスト小倉末子と東京音楽学校』東京芸術大学出版会、2011年10月30日(原著2011-1-30)。ISBN 978-4-904049-27-3。
- ^ 西村貫一「日本のゴルフ史」
- ^ 津上 智美「「神戸女学院仕込み」のピアニスト小倉末子」『神戸女学院大学論集』第2巻第58号、2011年。
- ^ コトバンク. 小倉 末子.