小田海僊

1785-1862, 江戸時代後期の南画家
小田海仙から転送)

小田 海僊(おだ かいせん、天明5年(1785年) - 文久2年8月24日1862年10月17日))は、江戸時代後期の日本の南画家通称は良平、は羸(るい)または瀛(えい)。を巨海、は海僊または百谷。

仙山春暁図 絹本着色 1848年
薛濤図 1846年 絹本着色 洛東遺芳館
大槻玄沢早稲田大学図書館 重要文化財[1]

略歴

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周防国富海(現在の山口県防府市富海)に生まれ、長門国赤間関(現在の山口県下関市)の紺屋(染工)を営む小田家の養子となる。 22歳のとき、京都四条派松村呉春に入門し、同門の松村景文岡本豊彦らと名声を競ったが、やがて頼山陽に感化され南画に転向。九州に遊学し、中国時代の古書画模写をするなどして研究を重ねて、独自の画風を確立した。文政7年(1824年)、萩藩御用絵師となり、一時江戸に滞在。2年後、京都に戻り活動。嘉永元年(1848年)から安政元年(1854年)にかけて画室を設けているが、このころ富岡鉄斎に絵を教えたと推定されている。

清楚な画風に特徴があり、山水画花鳥画人物画を得意とした。高野山京都御所障壁画(1855年)などの大事業を手掛けている。

文久2年(1862年)歿、享年78。大徳寺黄梅院に眠る。

交友

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門弟

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著作物

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  • 『分類二十四考図』(1843年)
  • 『人物十八描法』

作品

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文献

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関連項目

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脚注

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  1. ^ 重要文化財「大槻玄沢関係資料」一括のうち
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