小笠原宗康
室町時代の守護大名。室町幕府 信濃守護、鈴岡小笠原氏当主。小笠原政康の長男。大膳大夫、左京大夫。
小笠原 宗康(おがさわら むねやす)は、室町時代の守護大名。信濃守護[1]、小笠原氏当主。小笠原政康の長男。
時代 | 室町時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 文安3年8月9日(1446年)[1][注釈 1] |
別名 | 松尾五郎(通称) |
官位 | 大膳大夫[1]、左京大夫[1] |
幕府 | 室町幕府信濃守護 |
氏族 | 小笠原氏 |
父母 | 父:小笠原政康[1] |
兄弟 | 宗康、光康[1] |
子 | 政秀[1]、林政家(三河林氏初代) |
嘉吉2年(1442年)に父が死去、小笠原氏惣領職をめぐって従兄(伯父の小笠原長将の子)の小笠原持長との間で争いが起きた。持長は結城合戦や赤松満祐の討伐(嘉吉の乱)でも功績があり、幕府の実力者・管領畠山持国とも縁戚関係にあり、問題を複雑化させた。
しかし、当時の現状に鑑みれば、在京期間が長く、信濃と縁の薄い持長では信濃の国人を治めきれないと判断され、文安2年(1445年)11月、幕府問注所は宗康を信濃守護職に任命した。だが、小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も二派に分裂して対立が続いた。
文安3年(1446年)、宗康は弟の光康に後援を頼み、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取り決め、水内郡漆田原で持長軍と戦ったが敗れ討ち死にしてしまった(漆田原の戦い)。
持長は宗康を討ち取りはしたが、家督は既に光康に譲られていたため、幕府も守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた結果、持長と光康の対立は続いた。やがて光康と宗康の子孫同士も争うようになり、小笠原氏は持長系の府中小笠原家、宗康系の鈴岡小笠原家、光康系の松尾小笠原家との三家に分裂し、再統一は戦国時代初期の小笠原長棟(府中家)の登場を待つことになる。
脚注
編集参考文献
編集- 今井尭「小笠原系図」『日本史総覧』 3(中世 2)、新人物往来社、1984年。 NCID BN00172373。