小野寺景道

日本の戦国時代~安土桃山時代の大名。出羽国の戦国大名小野寺稙道四男で、小野寺氏13代当主(仙北小野寺氏8代当主)。居城の出羽横手城を中心に小野寺氏の最盛期を築いた

小野寺 景道(おのでら かげみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名小野寺氏第13代当主。出羽国平鹿郡横手城主。

 
小野寺 景道
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文3年(1534年
死没 慶長2年(1597年
改名 輝道→景道
氏族 藤原北家小野寺氏
父母 父:小野寺稙道
兄弟 大築地秀道景道
正室大宝寺氏娘?
光道義道康道吉田孫市
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生涯

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天文3年(1534年)、小野寺氏第12代当主・小野寺稙道の四男として誕生。父に倣って、室町幕府第13代将軍足利義輝から偏諱を賜り、初めは輝道(てるみち)と名乗った[1]。のちに景道に改名。

天文15年(1546年)、父・稙道が家臣の大和田光盛金沢八幡別当・金乗坊らに殺されて居城・横手城が奪われると(平城の乱)、幼少の景道は庄内大宝寺氏に保護された。大宝寺氏や由利郡の諸氏、稲庭城主ら小野寺一門の支援を受けて数年後に勢力を盛り返し、小野寺家随一の知謀の将で八柏館(現・秋田県横手市大雄)主の八柏道為の尽力もあって、光盛らを滅ぼし横手城を奪い返した[1][注釈 1]

その後も勢力を拡大し、湯沢城を八柏道為にあたえて一族扱いとし、みずからは大宝寺氏の娘を正妻にむかえ、新しい本拠地に横手城を選んで城下町を整備し、稲庭・川連・西馬音内・大森などの支城に一族を配置し、小野寺氏の最盛期を築き上げて、安東氏戸沢氏最上氏らと対峙した[1]。また、六郷氏から継嗣光道正室を迎えるなど周辺豪族との外交にも力を注いだ[1]

天正10年(1582年)、上洛して天下人織田信長と会見したが、帰国後に大宝寺義氏の横死、嫡子・光道の病死が相次ぎ、鮭延氏出身の側室より生まれた次男・義道に家督を譲って隠居した[1]

慶長2年(1597年)、死去。

親族

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  • 小野寺稙道 … 父
  • 大築地秀道沼館城代。景道の兄であるが庶子のために家督は継げず。一門として次代・義道の頃も留守居役などを務める。
  • 小野寺茂道 … 庶子。西馬音内(にしもない)小野寺氏の当主。小野寺氏の改易後は、戸沢盛安を頼る。
  • 小野寺光道 … 長男。浅舞城主。死因は諸説あり1590年仙北一揆の責任をとって自害したとも、それ以前に戦死や病死で死去したとも諸説ある。
  • 小野寺義道 … 次男。横手城主。家督。
  • 小野寺康道 … 三男。大森城主。戸沢光盛未亡人(楢岡氏)と再婚し、これにより夫人は大森御前と呼ばれる。小野寺氏改易では兄と共に石見へ配流。夫人は戸沢氏に引き取られた。
  • 吉田孫市 … 末子。吉田館主。吉田陳道。秀道。のち南部利直に仕える。

家臣

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脚注

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注釈

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  1. ^ 八柏道為がいるため小野寺領の制圧が難しいと考えた出羽山形の最上義光は、謀略を用いた。道為が最上家に内通しているという偽の書状を小野寺義道の目にふれるよう工作し、ついに義道は道為を斬ってしまった。このことが小野寺家の没落を招いた一因ともいわれている。

出典

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  1. ^ a b c d e 遠藤 2002, pp. 94–95.

参考文献

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  • 遠藤巌「戦国・織豊時代の出羽」『中世出羽の領主と城館』高志書院、2002年2月。ISBN 4-906641-49-0 

関連項目

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