山内豊策
日本の江戸時代の大名
山内 豊策(やまうち とよかず)は、土佐藩10代藩主。三条実美の外祖父である。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 安永2年4月16日(1773年6月5日) |
死没 | 文政8年8月3日(1825年9月15日) |
改名 | 邦之丞(幼名)→豊策 |
戒名 | 泰嶺院曄山顕常 |
墓所 | 高知県高知市天神町の真如寺 |
官位 | 従四位下筑後守、民部大輔、木工頭、侍従兼土佐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 土佐藩主 |
氏族 | 山内氏 |
父母 | 山内豊雍、毛利重就三女友子 |
兄弟 | 豊策、景之助、豊敬、采子、女子 |
妻 |
藤堂高嶷娘順 児玉氏、白禎院、山村氏、西宮氏、美濃辺氏 |
子 |
豊興、豊資、豊道、豊著、黒田長元、 豊栄、厚、眉寿、孝、徳、兎見ら8男7女 |
生涯
編集安永2年(1773年)4月16日、第9代藩主・山内豊雍の長男として生まれる。天明5年(1785年)2月15日、将軍徳川家治に御目見する。天明7年(1787年)3月18日、従四位下筑後守に叙任する。寛政元年(1789年)10月28日、父が死去したために跡を継いだ。同年12月16日、侍従に任官する。寛政9年(1797年)、郷士の高村退吾殺害事件による郷士騒動が起こり、これが原因で土佐藩の身分制度の動揺が始まったという。
藩政においては、藩校・教授館の拡大や文治の奨励、さらに塙保己一の『群書類従』編纂にも協力したという。文化5年(1808年)2月5日に家督を長男の豊興に譲って隠居し、木工頭を称した。文政8年(1825年)8月3日に死去した。享年53。
系譜
編集子女は8男7女