岡喜七郎
日本の内務官僚、政治家
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岡 喜七郎(おか きしちろう、1868年5月15日(慶応4年4月23日) - 1947年(昭和22年)7月4日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、警視総監、貴族院議員。旧姓・伊丹。
経歴
編集備前国(後の岡山県御津郡)出身。農業・伊丹喜三郎の長男として生まれ、旧幕臣・岡敬孝の養子となる。岡山中学、成立学舎、大学予備門を経て、1891年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年10月、高等試験に合格し、内務省試補となり警保局に配属され、さらに県治局へ異動した。
1893年11月、鳥取県参事官に就任。以後、青森県内務部長、内務書記官・警保局警務課長、大阪府内務部長などを歴任。
1904年11月、秋田県知事に就任。1905年12月、統監府に移り警務総長に就任。さらに、韓国政府農商工部次官兼統監府警務総長事務取扱、韓国内務次官を歴任した。
1910年6月、鳥取県知事に就任。1913年2月、内務省警保局長となり、1914年3月31日、貴族院勅選議員に任じられ[1]、交友倶楽部に属し1946年5月18日まで在任[2]。
1918年9月、原内閣の際に警視総監に就任し、1922年3月の二重橋爆弾事件を経て同年6月まで在任。戦後の1946年9月に公職追放となった。
栄典
編集- 位階
- 1894年(明治27年)2月28日 - 従七位[3]
- 1898年(明治31年)8月30日 - 従六位[4]
- 1901年(明治34年)4月20日 - 正六位[5]
- 1903年(明治36年)6月10日 - 従五位[6]
- 1905年(明治38年)5月30日 - 正五位[7]
- 1908年(明治41年)9月30日 - 従四位[8]
- 1913年(大正2年)10月10日 - 正四位[9]
- 1914年(大正3年)6月10日 - 従三位[10]
- 勲章等
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲三等旭日中綬章[11]・明治三十七八年従軍記章[12]
- 1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章[13]
- 1916年(大正5年)4月1日 - 旭日重光章[14]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 勲一等瑞宝章[15]
- 外国勲章佩用允許
脚注
編集- ^ 『官報』第501号、大正3年4月2日。
- ^ 『官報』第5804号、昭和21年5月23日。
- ^ 『官報』第3199号「叙任及辞令」1894年3月1日。
- ^ 『官報』第4552号「叙任及辞令」1898年8月31日。
- ^ 『官報』第5337号「叙任及辞令」1901年4月22日。
- ^ 『官報』第5981号「叙任及辞令」1903年6月11日。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
- ^ 『官報』第7581号「叙任及辞令」1908年10月1日。
- ^ 『官報』第362号「叙任及辞令」1913年10月11日。
- ^ 『官報』第558号「叙任及辞令」1914年6月11日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
- ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
- ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
- ^ 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
参考文献
編集- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
公職 | ||
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先代 創設 |
統監府警務総長 (事務取扱:1907 - 1910) 初代:1905 - 1910 |
次代 明石元二郎 |