島津忠重
島津 忠重(しまづ ただしげ、1886年(明治19年)10月20日 - 1968年(昭和43年)4月9日)は、日本の海軍軍人、貴族院議員。
島津忠重 | |
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島津忠重(1913年撮影) | |
生誕 |
1886年10月20日 日本 鹿児島県鹿児島郡吉野村磯(仙巌園) |
死没 | 1968年4月9日(81歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1907年 - 1935年 |
最終階級 | 海軍少将 |
出身校 | 海軍大学校 |
子女 | 島津忠秀 |
親族 | 島津忠義(父) |
除隊後 | 貴族院議員 |
墓所 | 鹿児島県鹿児島市池之上町の常安峰 |
島津氏第30代当主。島津忠義の四男であるが、兄たちの早世によりその嫡男(跡取り)となる。海軍少将正二位勲一等公爵。神号は「島津忠重命」。幼名は秀丸。
生涯
編集仙巌園で生まれ、幼少時代を過ごし、島津家庭尋常小学校(忠重とその兄弟が通うための学校)に通う。1898年(明治31年)2月1日、父・忠義の薨去により家督を相続し[1]、公爵を襲爵する。叔父の島津珍彦が後見人となる。ほどなく鹿児島より上京し、学習院に編入学する。また、英国人女性家庭教師エセル・ハワード[注釈 1]に忠備ら4人の弟とともに教育を受ける。
1901年(明治34年)6月2日、東京芝区袖ヶ崎島津公爵邸において、贈正一位島津斉彬公祭典を主催する。同年7月、全国第7番目の高等学校の鹿児島誘致を支援し、「造士館」の館号を受け継いだ「第七高等学校造士館」(七高)が開学(鹿児島大学の前身)。
1904年(明治37年)、海軍兵学校に入学する。忠重は海に憧れがあったため、自らの希望で海軍に入ったことを随筆に書き残している。1907年(明治40年)、海軍兵学校を卒業(35期)。後輩に同族の越前島津氏(播磨家)29代・島津信夫(42期 大正2年・龍野中)がいた。忠重は当時所属した第一艦隊の軍艦・香取から信夫に江田島海軍兵学校入学祝いの手紙を送っている。 翌年少尉に任官、1910年(明治43年)大尉に昇進。摂津、筑波、河内の分隊長を歴任した[2]。 1919年(大正8年)少佐に昇進。1920年(大正9年)、海軍大学校甲種学生18期として卒業[3]。
1911年(明治44年)10月19日、満25歳に達し貴族院公爵議員に就任[4]。
1921年(大正10年)より2年間イギリスに私費留学をする。1924年(大正13年)中佐、1929年(昭和4年)大佐、1935年(昭和10年)海軍少将と昇進を重ねる。ただし、同年予備役となる。この間、1923年(大正12年)に海軍軍令部参謀・海大教官兼任、1928年(昭和3年)に駐英日本大使館付武官、1929年(昭和4年)にロンドン海軍軍縮会議全権委員随員[5]などを命じられている。
海軍軍人以外には、貴族院議員(明治44年10月-昭和21年5月)、貴族院仮議長(1回)、麝香間祗候[6]、学習院評議会議長[7]、華族会館館長なども務めた経歴がある。
1923年(大正12年)の関東大震災の際には同年8月30日に勝手に白金三光町に帰宅した母・寿満子を袖ヶ崎邸に避難させ、永田町一丁目の家で一緒に睡眠をとった[8]。
1924年(大正13年)、「歴代の祖先が残した物心両面に亘る遺産を後世に広く伝えたい」と、博物館『尚古集成館』を集成館跡地に開館(国の重要文化財)。
1927年(昭和2年)に発生した昭和金融恐慌により十五銀行が破産すると、当時150万円の預金があり、そのうえ2万近い新株を持っていた島津家は大損害を蒙った[注釈 2]。その損失補填のために袖ヶ崎邸の敷地3万坪のうち6千坪だけを残し、全部売りに出した。その後も先祖伝来の家宝を昭和3年と4年の2回に亘って東京美術倶楽部で売り立てに出すなど、経済的に苦境に陥った[10]。同年6月、先祖島津忠久の700年祭にあたって照国神社に島津家伝来の備前国刀工・国宗(鎌倉時代中期)を奉納(現在は、鹿児島県歴史資料センター黎明館に保管。国宝)。
1946年(昭和21年)5月9日、貴族院議員を辞職[11]。同年9月、公職追放[12]。1947年(昭和22年)、華族制度廃止。同年5月15日午前10時、忠重以下華族204名は、昭和天皇から皇居・表三の間に非公式に召集を受けて、「華族制度は終了した。各自はこれからも祖先の名を辱めないよう努力してほしい」という趣旨の御言葉を賜ったという。
戦後の忠重は様々なスキャンダルに巻き込まれマスコミの攻撃にあったり、財産管理会社であった島津興業が倒産の危機に瀕するなど、多くの困難に遭遇したが、周囲の支援もあり苦境を乗り越え、他の旧華族のような没落は免れることが出来た。ちなみに1957年(昭和32年)に「島津家文書」を東京大学史料編纂所に売却した「島津鑑康(しまづ あきやす)」とは忠重の別名である。
晩年には幼・青年期のころを回想した随筆を多数上梓した。これらは明治時代の「大名華族」の生活ぶりを偲ぶ貴重な史料となっている。
エピソード
編集人物
編集すべて緑色に見えますと言った発言者を笑ったり[8]、赤と緑が見分けにくいことから(宮内庁報告書)2型3色覚だと思われる。
袖ヶ崎島津邸
編集老朽化した袖ヶ崎邸を英国風洋館に改築することを計画し、1906年(明治39年)にジョサイア・コンドルに設計を依頼した。設計変更・明治天皇の崩御等もあって竣工したのは1915年(大正4年)。設備や調度等が整えられ、1917年(大正6年)に披露された。 前年『実業之日本』誌による「富豪・華族の宅地の広さ番付」では2万坪で東の関脇(全華族中第3位)と評価されている[13]。 その後、戦争のため維持できなくなり、1944年(昭和19年)に日本銀行へ売却。周囲は大半が戦火焼失したにもかかわらず、邸は焼失を免れる。1946年(昭和21年)1月から1954年(昭和29年)5月までGHQの管理下に置かれ、1961年(昭和36年)、清泉女子大学本館となる(東京都品川区東五反田)。周囲一帯を島津山という。
- 外部リンク 旧島津公爵邸(清泉女子大学ホームページ)
蘭の育種
編集蘭の育種家としても有名で、多くの交配種をサンダーズリストへ登録しており、代表的なものに「カトレア・シラユキ」やデンドロビュームの「インドヨー」などの名花の名があげられる。戦前は、帝国愛蘭会最後の会長で、2度、英国へ大使館付き武官として赴任した際は、英国王立園芸協会(RHS)の例会へも会員として出席している。1944年(昭和19年)には、忠重を初代会長とする社団法人園芸文化協会が設立されている。また、戦後には、忠重を会長として全日本蘭協会(AJOS)が発足している。島津賞(Tadashige Shimadzu Prize)は、最も優れた出品花に授与されるAJOS最高の賞である。
一方、旭硝子創業者岩崎俊弥との蘭を通じての交流も有名である。岩崎は、あるバンダ交配種を作出したが、サンダーズリスト登録前に亡くなった。忠重は岩崎を偲んでこの交配種名を「メモリア・T・イワサキ」と命名し、サンダーズリストへ登録したというエピソードがある。
栄典
編集- 1898年(明治31年)
- 1899年(明治32年)
- 1900年(明治33年)3月13日 - 金杯一個[20]
- 1905年(明治38年)2月4日 - 銀杯一個[21]
- 1906年(明治39年)10月30日 - 従五位[22]
- 1907年(明治40年)4月9日 - 木杯一組[23]
- 1908年(明治41年)11月10日 - 正五位[24]
- 1909年(明治42年)
- 1910年(明治43年)3月16日 - 勲四等瑞宝章[27]
- 1911年(明治44年)
- 1912年(明治45年/大正元年)
- 1915年(大正4年)
- 1917年(大正6年)
- 1918年(大正7年)
- 1919年(大正8年)11月11日 - 紺綬褒章[47]
- 1920年(大正9年)
- 1927年(昭和2年)1月7日 - 正三位[50]
- 1928年(昭和3年)11月10日 - 勲二等瑞宝章・金杯一個[51]
- 1929年(昭和4年)2月18日 - 紺綬褒章飾版[52]
- 1934年(昭和9年)1月15日 - 従二位[53]
- 1939年(昭和14年)5月29日 - 紺綬褒章飾版[54]
- 1940年(昭和15年)
- 1942年(昭和17年)
- 1966年(昭和41年)11月3日 - 勲一等瑞宝章[59]
- 外国勲章佩用允許
家族
編集著書
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 1865~1931、1895年ドイツ皇太子およびその弟妹の英語の家庭教師であった。ちなみに彼女の招聘に尽力したのが松方正義を代表とする薩摩藩閥の元老達である。目的は島津久光・忠義親子が固執した旧習を島津家から一掃し、欧米風の貴族として島津家の子弟を養育することであった。
- ^ 十五銀行の頭取・松方巌は旧薩摩藩の縁者(松方正義の長男)であったため、その損失の責任を取り爵位を返上し、一切の公職から退いた[9]。
- ^ 外務省勤務、スペイン、カナダ大使→迎賓館長。義父の家庭教師であったエセル・ハワードの書いた『明治日本見聞録』を翻訳した。参考文献参照。
出典
編集- ^ 『官報』第4373号「叙任及辞令」1898年2月2日。
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、569頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 『官報』第2502号「彙報 - 陸海軍」1920年12月3日。
- ^ 『官報』第8501号、明治44年10月20日。
- ^ 『官報』第863号「叙任及辞令」1929年11月13日。
- ^ 『官報』第3873号「叙任及辞令」1939年12月2日。
- ^ 『官報』第4110号「叙任及辞令」1940年9月16日。
- ^ a b しらゆき. 島津出版会刊
- ^ 参照『横から見た華族物語』山口愛川、一心社出版部、昭和7年)
- ^ 『売立目録の書誌と全国所在一覧』都守淳夫 編著 勉誠出版 2001.11 ISBN 9784585100829
- ^ 『官報』第5803号、昭和21年5月22日。
- ^ 『朝日新聞』1946年10月6日一面。
- ^ 下川耿史 家庭総合研究会 編『明治・大正家庭史年表:1868-1925』河出書房新社、2000年、415頁。ISBN 4-309-22361-3。
- ^ 『官報』第4496号「彙報 - 褒賞」1898年6月27日。
- ^ 『官報』第4761号「彙報 - 褒賞」1899年5月18日。
- ^ 『官報』第4813号「彙報 - 褒賞」1899年7月18日。
- ^ 『官報』第4956号「彙報 - 褒賞」1900年1月12日。
- ^ 『官報』第5348号「彙報 - 褒賞」1901年5月4日。
- ^ 『官報』第5349号「彙報 - 褒賞」1901年5月6日。
- ^ 『官報』第5347号「彙報 - 褒賞」1901年5月3日。
- ^ 『官報』第6508号「彙報 - 褒賞」1905年3月14日。
- ^ 『官報』第7003号「叙任及辞令」1906年10月31日。
- ^ 『官報』第8193号「彙報 - 褒賞」1910年10月11日。
- ^ 『官報』第7614号「叙任及辞令」1908年11月11日。
- ^ 『官報』第8300号「彙報 - 褒賞」1911年2月24日。
- ^ 『官報』第8284号「彙報 - 褒賞」1911年2月4日。
- ^ 『官報』第8191号「叙任及辞令」1910年10月8日。
- ^ 『官報』第8612号「彙報 - 褒賞」1912年3月7日。
- ^ 『官報』第69号「彙報 - 褒賞」1912年10月23日。
- ^ 『官報』第67号「彙報 - 褒賞」1912年10月21日。
- ^ 『官報』第103号「彙報 - 褒賞」1912年12月3日。
- ^ 『官報』第8534号「叙任及辞令」1911年11月30日。
- ^ 『官報』第109号「彙報 - 褒賞」1912年12月10日。
- ^ 『官報』第183号「彙報 - 褒賞」1913年3月12日。
- ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ^ 『官報』第276号「彙報 - 褒賞」1913年7月1日。
- ^ 『官報』第982号「彙報 - 褒賞」1915年11月8日。
- ^ 『官報』第1142号「彙報 - 褒賞」1916年5月24日。
- ^ 『官報』第1148号「彙報 - 褒賞」1916年5月31日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1009号「叙任及辞令」1915年12月11日。
- ^ 『官報』第1474号「彙報 - 褒賞」1917年6月30日。
- ^ 『官報』第1478号「彙報 - 褒賞」1917年7月5日。
- ^ 『官報』第1617号「彙報 - 褒賞」1917年12月21日。
- ^ 『官報』第1804号「叙任及辞令」1918年8月7日。
- ^ 『官報』第2075号「彙報 - 褒賞」1919年7月5日。
- ^ 『官報』第2182号「彙報 - 褒賞」1919年11月12日。
- ^ 『官報』第2299号「彙報 - 褒賞」1920年4月5日。
- ^ 『官報』第2517号「叙任及辞令」1920年12月21日。
- ^ 『官報』第10号「叙任及辞令」1927年1月2日。
- ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
- ^ 『官報』第649号「彙報 - 褒賞」1929年3月1日。
- ^ 『官報』第2111号「叙任及辞令」1934年1月18日。
- ^ 『官報』第3718号「彙報 - 褒賞」1939年5月31日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『官報』第4171号「彙報 - 褒賞」1940年11月30日。
- ^ 『官報』第4599号「叙任及辞令」1942年5月13日。
- ^ 『官報』第4706号「彙報 - 褒賞」1942年9月15日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧 (戦後の部) 2023年1月8日閲覧。
- ^ 『官報』第8052号「叙任及辞令」1910年4月28日。
- ^ 『官報』第1777号「叙任及辞令」1918年7月5日。
- ^ 『官報』第2511号・付録「辞令二」1935年5月20日。
- ^ 『官報』第2866号・付録「辞令二」1936年7月22日。
- ^ 『官報』第5060号・付録「辞令二」1943年11月24日。
- ^ 佐藤朝泰『門閥──旧華族階層の復権』p.133(立風書房、1987年)
- ^ 人事興信録45版し71
- ^ 人事興信録45版し71
- ^ 人事興信録45版し71
- ^ 人事興信録45版し71
- ^ 人事興信録45版し71
- ^ 人事興信録45版し71
- ^ 人事興信録45版し71
参考文献
編集- 島津忠重『炉辺南国記』鹿児島史談会、1957年 島津出版会、(発売)つかさ書房、1983年。
- エセル・ハワード『明治日本見聞録-英国家庭教師婦人の回想』島津久大訳、講談社〈講談社学術文庫〉、1999年。ISBN 4061593641
- 島津出版会編『しらゆき-島津忠重・伊楚子追想録』出版地:東京、島津出版会、1978年。
関連項目
編集- アーサー (コノート公) - 日本訪問時に忠重が鹿児島の案内役を務めた。島津家の史料では「コンノート公」として紹介されている。
その他の役職 | ||
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先代 (新設) |
園芸文化協会会長 1944年 - 1968年 |
次代 石田博英 |
先代 (新設) |
全日本蘭協会会長 1958年 - 1968年 |
次代 石田博英 |
先代 鷹司信輔 華族会館長 |
霞会館理事長 1947年 - 1949年 華族会館長 1944年 - 1947年 |
次代 細川護立 |
先代 松平頼寿 |
恩賜財団大日本母子愛育会会長 1944年 - 1945年 |
次代 関屋貞三郎 恩賜財団母子愛育会会長 |
先代 松平頼寿 |
恩賜財団済生会会長 1944年 - 1946年 |
次代 潮恵之輔 |
日本の爵位 | ||
先代 島津忠義 |
公爵 島津家(宗家)第2代 1897年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |