仏教用語において帰依(きえ、: saraṇagamana: śaraṇagamana)とは、拠り所にするという意味[1]

仏教用語
帰依
パーリ語 saraṇa (सरण)
サンスクリット語 śaraṇa (शरण)
ベンガル語 শরন
中国語 皈依
(拼音Guīyī)
日本語 帰依
(ローマ字: kie)
朝鮮語 귀의
(RR: gwiui)
タイ語 สรณะ, ที่พึ่ง ที่ระลึก RTGSsarana, thi phueng thi raluek
ベトナム語 Quy y
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三宝のシンボル(Chorasan, Gandhara, 2世紀ごろ, ベルリン民族学博物館

一般的に仏教に帰依をする際には「三帰五戒」(さんきごかい)とされ、を拠り所にすることを宣言し(三帰依)、五戒とよばれる戒律と、可能であれば更に「八斎戒」を授かることになる。宗教的には仏教以外の教えを信じることをやめ、「五戒」を守ることを誓ってはじめて正式な仏教徒となるのである。

サンスクリットの「śaraṇa शरणパーリの「saraṇa」は、保護所・避難所という意味である。いわゆる中国語には「依帰」という言葉が『書経』に出てくるが、この場合は「頼りにする」という程度の意味である。

  • 大乗仏教の一部の宗派では、帰依とは勝れたものに対して自己の身心を帰投して「依伏信奉」することをいう。
  • 自帰依、法帰依(自洲自依、法洲法依)(: attadīpo attasaraṇo dhammadīpo dhammasaraṇo)という場合の「自帰依」(自灯明)は、四念処の実践を意味する。

仏法僧の「三宝」に帰依することを、先の様に三帰依(さんきえ、: ti-saraṇa: tri-śaraṇa)というが[1]、この三帰依の文章は仏道に入る儀式である『受戒会』や『得度』にも用いられ、しばしば音楽法要にも使われる。

八宗の祖と仰がれる龍樹は、「仏法の大海は[注 1]の一字をもって入る」と『大智度論』の中で述べていて、また、空海は「仏法の殊妙を聞かば、必ずよく帰依し信受すべし」と『十住心論』に述べている。

三帰依文

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三宝は以下を指す[1]

パーリ三帰依文

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南方仏教ではパーリ語で仏法僧の三宝への文章を、以下のように3度繰り返して帰依を表す(三帰依)[2][1]

  • 1度目の帰依
Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ブッダン・サラナン・ガッチャーミ)
(私はブッダ(仏)に帰依いたします)
Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ダンマン・サラナン・ガッチャーミ)
(私はダンマ(法)に帰依いたします)
Saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi(サンガン・サラナン・ガッチャーミ)
(私はサンガ(僧)に帰依いたします)
  • 2度目の帰依
Dutiyampi Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ドゥティヤンピ・ブッダン・サラナン・ガッチャーミ)
(再び、私はブッダ(仏)に帰依いたします)
Dutiyampi Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ドゥティヤンピ・ダンマン・サラナン・ガッチャーミ)
(再び、私はダンマ(法)に帰依いたします)
Dutiyampi Saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ドゥティヤンピ・サンガン・サラナン・ガッチャーミ)
(再び、私はサンガ(僧)に帰依いたします)
  • 3度目の帰依
Tatiyampi Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi(タティヤンピ・ブッダン・サラナン・ガッチャーミ)
(三度(みたび)、私はブッダ(仏)に帰依いたします)
Tatiyampi Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi(タティヤンピ・ダンマン・サラナン・ガッチャーミ)
(三度、私はダンマ(法)に帰依いたします)
Tatiyampi Saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi(タティヤンピ・サンガン・サラナン・ガッチャーミ)
(三度、私はサンガ(僧)に帰依いたします)

大乗仏教

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三宝に帰依した後は以下の文章を毎日3回唱えて仏法僧への誓いを新たにし、御仏や諸尊、加えて御先祖様の加護を祈るようにする。[要出典]

また、『華厳経』浄行品第7にある、以下の経文を「三帰礼拝文」とし、日本の伝統宗派では唱えながら礼拝する場合もある。

  • 自帰依 当願衆生 体解大道 発無上意
  • 自帰依 当願衆生 深入経蔵 智慧如海
  • 自帰依 当願衆生 統理大衆 一切無碍

真宗大谷派では、開経偈と併せて以下のように唱える。

人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
自から僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。
我いま見聞し受持することを得たり。
願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
(無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義)

脚注

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注釈

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  1. ^ ここでは帰依と信心の両方を指す。[要出典]
  2. ^ ブッダ:仏陀、覚者。直接的には歴史上の釈迦牟尼仏を指し、広義には諸仏・菩薩や仏像をも含める。
  3. ^ ダルマ:仏法。主に『大蔵経』における律蔵・経蔵・論蔵の「三蔵」の教えを意味する。
  4. ^ サンガ:正しくは「僧伽」(そうぎゃ)。いわゆる20名以上の僧侶の集団である事が必要で、具足戒を保持している状態の人々を指す。

出典

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  1. ^ a b c d 仏旗・法輪・三帰依文”. 公益社団法人全日本仏教会. 2022年12月閲覧。
  2. ^ 初期仏教の世界 - 礼拝の言葉”. 日本テーラワーダ仏教協会. 2022年12月閲覧。

参考文献

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関連項目

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