常陸平氏
常陸平氏(ひたちへいし)は、桓武平氏のうち常陸国を本拠とした高望王流坂東平氏の一族の呼称で、軍事貴族(武家貴族)の家柄である。後に惣領家が大掾氏を称した。伊勢平氏とは同族であり、鎮西平氏(伊佐氏)、越後平氏(城氏)、信濃平氏(仁科氏)、海道平氏(岩城氏)などの庶家を出した(ただし、信濃平氏と海道平氏は庶家ではなく、別系統とする説もある)。通字は「幹」(もと)。
もっとも、吉田氏改め大掾氏が常陸平氏の惣領として描く歴史観は、大掾氏自身が作成した系譜(『常陸大掾系図』・『常陸大掾系図』)に基づくところが大きく、常陸平氏の実態を示していないとする批判も存在する[1]。
歴史
編集勃興
編集昌泰元年(898年)に上総介に任じられた父の平高望とともに坂東に下向した高望の長子・平国香は、前任の常陸大掾源護の娘を妻とし護よりその地位を受け継ぎ常陸大掾として常陸国筑波山西麓の真壁郡東石田に住したが、護の子扶らと下総を本拠とする甥の将門との抗争に巻き込まれて亡くなり承平天慶の乱の発端となる[2][3] 。その後、国香の嫡子貞盛は藤原秀郷らの協力を得て将門を討ち、その報償として常陸に多数の所領を得る。貞盛は一族から多数の養子を迎えたことで知られ、この内、弟である繁盛の子維幹を常陸に赴任させた。維幹は同国筑波郡多気に因んで多気権大夫と号し、ここを拠点にして勢力を拡大させていく。これが常陸平氏の始まりである。常陸平氏は大掾職を代々継承し、苗字にしていく。維幹の後は長男の為幹が継ぐが、次男の為賢は伊佐氏を号し、後に肥前に移住して鎮西平氏を形成する。
その一方で「常陸平氏は大掾職を代々継承した」とする伝承には史実との整合性に合わない部分があり、12世紀に常陸国の国衙が発給した文書には大掾の世襲が事実とすれば当然記されているべき大掾の署判が存在せず、何よりも大掾氏(吉田・馬場氏)の系図ですら為幹の次に大掾の地位に就いたのは曾孫である馬場資幹とされている。従って、馬場資幹以前の常陸平氏を「大掾氏」と呼称するのは不適切であると考えられる[1]。
維幹の兄弟の方では、維茂(同じく貞盛の養子)は越後に赴任して、その子孫は城氏を称して越後平氏を形成する。他にも、兼忠の子孫は信濃平氏(仁科氏)として、安忠の子孫は海道平氏(岩城氏)として発展したとされる(上記参照)。
拡大
編集平重幹(為幹の子、表記は繁幹とも)の息子の代で常陸平氏は発展していくことになる。重幹の長男致幹は多気姓を継承し、その孫の代で下妻、東条、真壁の諸氏が生まれる。致幹の娘は清和源氏の源頼義と一夜を共にして娘を儲けたとされ、彼女は出羽清原氏の家督を継いだ海道平氏出身の成衡(『桓武平氏諸流系図』に拠れば出羽清原氏は海道平氏出身とされる)の妻となるが、その婚姻の席が後三年の役の原因となったことは有名である。
次男の清幹は吉田氏を称し、この一族から石川、行方、麻生の諸氏が出た。清幹の娘は源頼義の三男・新羅三郎義光の長男義業(常陸源氏の祖)に嫁いで佐竹氏初代当主昌義を儲けている。なお、清幹は義業の弟である武田冠者義清と悶着を起こしており、大治5年(1130年)には義清の子息・清光の乱暴により義清・清光親子は甲斐国へ配流される。清光の子孫は甲斐へ土着し、武田氏を始めとする甲斐源氏の一族となる。
三男の政幹は石毛氏を称し、豊田氏を出した。四男の宗幹は常陸氏を、末子の重義は小栗氏を称した。
挫折
編集ところが、上記の重幹及び子供たちの時代については、常陸平氏そのものの広がりは拡大したものの実は発展期ではなく解体期であったとする見方が浮上している。
10世紀以降の常陸平氏の発展は貞盛が将門を討ったことでその子孫は京都で軍事貴族として定着して度々常陸介に任じられ、一方繁盛の子孫は常陸で在庁官人・私営田領主として基盤を作っていったと考えられている。京都の貞盛流が常陸の受領国司として繁盛流の現地の活動の後ろ盾(不正活動の揉み消しも含めた)となり、常陸の繁盛流は貞盛流の受領としての職務を現地で遂行するとともに京都での活動に必要な人的・物的支援を行う関係にあった[4]。
ところが、11世紀に入ると平維良が下総国の国府を襲撃した平維良の乱(1003年)、平為幹が常陸介藤原惟通の未亡人を強姦した事件(1020年)、常陸介であった平維衡が相撲人を殺害した事件(1025年)、平直方が平忠常の乱鎮圧に失敗した事件(1030年)が続発して軍事貴族としての立場を弱体化させ、常陸介に任ぜられることもなくなる(平維衡も伊勢国に拠点を見出すことになる)。常陸における軍事貴族としての地位を失った常陸平氏は災害や戦乱による私営田経営の破綻もあって郷村に散らばっていく(常陸平氏の嫡流と解されている多気氏ですら、筑波郡の一部を支配する小領主に過ぎなくなっている)。郷村においては私営田を自らの私領として再建しつつ、軍事力によって現地の有力農民の利益を保護して彼らの支持を得ながら在地領主化の道を選ぶことになる。常陸平氏の人々の中には自らの私領を荘園として寄進する事で中央権門との関係を維持した者もいたが個別の動きにとどまっており、12世紀における常陸平氏は貞盛以来の基盤を失って「リセット」の状態からの再建を余儀なくされ、一族全体のまとまりも一旦は解体の方向に向かっていたとみられている[1]。
房総平氏との邂逅
編集その頃、北総では平忠常を祖とする房総平氏が勢力を拡大しており、その勢いを常陸まで伸ばしていた。房総平氏との関係では、忠常の父忠頼と繁盛が対立関係にあり、また忠常が引き起こした長元の乱に維幹が参加する等、敵対関係にあった。加えて、常陸平氏の姻戚関係にあった佐竹氏と房総平氏は度々衝突していた。
もっとも、石毛政幹の娘が千葉常重に嫁いで千葉介常胤を設け、常胤の娘が多気直幹(致幹の子)に嫁ぐ等、必ずしも敵対関係にあるとは言えなかった。恐らく、佐竹氏と房総平氏の双方と関係を持つことで勢力を維持していったと考えられる。
源平合戦と、その後
編集1180年に源頼朝が挙兵すると、常陸平氏は縁戚の佐竹氏や同族の越後平氏と共に敵対する構えを見せた(常陸平氏の中でも小栗重成と鹿島政幹は早い時期に頼朝に従っている[5])。しかし、佐竹征伐(この時の源氏勢の中枢を担ったのが房総平氏の上総介広常と千葉介常胤である)以降に頼朝に服属する形を採り、屋島の戦いで鹿島宗幹・弘幹が戦死している。こうした戦乱の激化は一旦は解体の方向に向かっていた常陸平氏を再編成するきっかけになったと思われる。
鎌倉幕府が成立すると惣領の多気義幹(直幹の子)は失脚し、吉田氏の系統に属する馬場資幹がその座に就いた(もっとも、常陸平氏は解体過程にあったとする見解に基づけば、常陸平氏の「惣領」の存在自体が既に消滅しており、多気義幹は常陸平氏の有力者に過ぎない[4])。資幹は頼朝の意向によって常陸大掾に任じられたが、これは未だに強い力を残した常陸国の在庁官人と再編成が進む常陸平氏を頼朝の統制下に組み込むための政策であったと考えられ、資幹の常陸大掾の地位は頼朝によって新たに与えられた所職、惣領の地位も頼朝によって人為的に作り出された立場であった(勿論、「大掾」の地位が与えられた背景には平為幹ら祖先が任じられた地位であったことが背景にあったと考えられる[4])。言わば、後世「常陸平氏」として知られる集団は源頼朝ー馬場資幹の下で再編成された結果生み出された新たな一族集団であったと言える[1]。
以後、馬場氏(資幹の一族)は「大掾氏」とも称され、1591年に佐竹氏によって討滅されるまで、常陸平氏は大掾氏(吉田氏―馬場氏)を中心として存続していくことになる。
系図
編集脚注
編集- ^ a b c d 高橋修 著「『常陸平氏』再考」、高橋修 編『実像の中世武士団』高志書院、2010年。/所収:高橋 2015
- ^ 例えば、河合敦『早わかり日本史』などでは、吉川英治や海音寺潮五郎の小説から、「弟の良将の領地を国香が奪ったため、良将の子将門は国香を討って領地を取り返した。」のようになっているが、これはあくまでも「早わかり」であり、俗説なり通説なりの説があるわけではない。
- ^ 海音寺潮五郎はその著書『悪人列伝 古代篇』に、抗争の原因について「歴史上のこんなことは古文書でも発見されないかぎりほんとうのことはわからないのだから、面白ければ面白いほどいいのである。」とし、国香の死因については「将門記ではいつどこで討取られたか書いてないが(死んだとすら書いてなく、貞盛の行動から国香が死んだことが推察できるのみである)、国香も武人だ、・・だから戦死したのであり、」として何の根拠もあるわけではないことを明言している。
- ^ a b c 高橋 2015, 高橋修「常陸平氏成立史研究の現在」
- ^ 清水亮「養和元年の常陸国鹿島社惣追捕使職補任に関する一考察」『関東地域史研究』2号、2000年。/所収:高橋 2015
参考文献
編集- 河合敦『早わかり日本史』日本実業出版社、2008年。ISBN 978-4-534-04448-8。
- 海音寺潮五郎『悪人列伝 古代篇』文藝春秋、2006年。ISBN 978-4-16-713548-5。
- 高橋修 編『常陸平氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第一六巻〉、2015年。ISBN 978-4-86403-167-7。