平経正

平安時代末期の武将、歌人。平経盛の長男嫡子。正四位下、但馬守、皇太后宮亮、左馬権頭。勅撰集『千載和歌集』以下に9首入集

平 経正(たいら の つねまさ)は、平安時代末期の平家一門の武将歌人平経盛の長男で、平敦盛の兄。平清盛の甥にあたる。

 
平経正
平経正(月岡芳年画/明治時代)
時代 平安時代末期
生誕 生年不詳
死没 寿永3年2月7日1184年3月20日
墓所 兵庫県神戸市兵庫区切戸町1-3 琵琶塚
官位 正四位下但馬皇太后宮亮、左馬権頭
氏族 桓武平氏維衡流(伊勢平氏
父母 父:平経盛
兄弟 経正経兼広盛経俊経光敦盛輝経?
経菊丸[1]
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略歴

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平経正の塚とされる琵琶塚(兵庫県神戸市兵庫区

平家一門の中でも俊才として知られ、歌人として活躍した。家集に「経正朝臣集」がある。また平安貴族が愛用した楽器の琵琶の名手として名を挙げた。藤原俊成仁和寺五世門跡覚性法親王といった文化人と親交が深く、とりわけ覚性からは、経正が幼少時を仁和寺で過ごしたこともあり、楽才を認められ琵琶の銘器『青山』を下賜されるなど寵愛を受けた。

寿永2年(1183年)の平家都落ちの際に仁和寺に駆けつけ、拝領の『青山』を返上し和歌を残した逸話は、『平家物語』中「経正都落」、『源平盛衰記』中「経正仁和寺宮ヘ参リシ事」条などで著名である。[2]

寿永3年(1184年)、一ノ谷の戦いにおいて、河越重房の手勢に討ち取られて戦死した。公式に確認されている子女はないが、後世では生嶋氏が平経正の子孫を称している。またの演目である『経政』は、経正を題材とした修羅物である。

末裔

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桂宮諸大夫であった生島氏は経正の末裔とされる[3]

脚注

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  1. ^ 三上景文『地下家伝 第21-26日本古典全集 ; 第6期)[1]』(日本古典全集刊行会、1937年)
  2. ^ しかしこの時既に師であった覚性は他界しているため、経正と歌を詠み交わしたのは六世門跡守覚法親王である。なおこの記事について、経正の出生年及び元服年が不詳であることもあり、資料によっては覚性・守覚両法親王の名に混同が見られる。
  3. ^ 三上景文『地下家伝 第21-26日本古典全集 ; 第6期)[2]』(日本古典全集刊行会、1937年)

関連項目

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平経正(菊池容斎画)
 
但馬守経正(楊洲周延『日本歴史教訓画』)
 
平経正卿歌碑(門司柳御所
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