庄野 理一(しょうの りいち、1888年12月20日 - 1954年5月23日)は、日本の弁護士最高裁判所判事香川県出身。

人物

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1913年(大正2年)に東京帝国大学独法科を卒業し、すぐに弁護士になった[1]。民事が専門[2]。弁護士をしながら、東邦商事など数社の役員や顧問をし、実業界でも活動した[1]。東京弁護士会会長も務め、戦後は公職資格審査委員会委員長に選出されたりもした[1]

裁判官任命諮問委員会による諮問の結果、1947年(昭和22年)8月に最高裁判所判事となる[1]1948年(昭和23年)2月10日、東京帝大出身の弁護士を中心として開かれた会合で、平野事件に関して「牧野英一公職適否審査委員長が西尾末広から50万円を貰い、委員に10万ずつ渡した」旨の発言をした[1]。これに伝え聞いた西尾から同年3月18日に名誉毀損で刑事告訴される[1][2]。庄野は「世間で流布されていることを語ったに過ぎない」と述べた[1]。刑事事件としては成立しなかったが、国会の裁判官弾劾訴追委員会でも調査され、訴追の可能性が強まった[3]。この騒ぎに嫌気がさしたのか、庄野は6月16日に辞表を提出し、6月26日に臨時閣議で依願免官となった[3]。最高裁裁判官在任期間11ヶ月は史上最短記録であり、59歳6ヶ月での最高裁裁判官退官は史上最年少である。制度創設後最初の国民審査となった第1回の最高裁判所裁判官国民審査の投票日(1949年1月23日)以前に退職しているため国民審査を受けていない。

退官後は弁護士に戻ったが、1954年(昭和29年)5月23日に東京都千代田区の自宅で脊椎腫瘍で67歳で死去した[3]

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f g 野村二郎 1986, p. 31.
  2. ^ a b 野村二郎 2004, p. 24.
  3. ^ a b c 野村二郎 1986, p. 32.

参考文献

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  • 野村二郎『最高裁全裁判官:人と判決』三省堂、1986年。ISBN 9784385320403 
  • 野村二郎『日本の裁判史を読む事典』自由国民社、2004年。ISBN 9784426221126 
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