全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方
全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(ぜんこくじょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせんていかた)は、1873年(明治6年)1月14日に明治政府において、太政官から陸軍省に発せられた太政官達「全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ存置ノ地所建物木石等陸軍省ニ管轄セシム」の件および、同じく大蔵省に発せられた太政官達「全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ廃止ノ地所建物木石等大蔵省ニ処分セシム」の件の総称。陸軍が軍用として使用する城郭陣屋と、大蔵省に引渡し売却用財産として処分する城郭陣屋に区分された。単に「廃城令」、「城郭取壊令」または「存城廃城令」と略されて使用されている場合が多い。
全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ廃止ノ地所建物木石等大蔵省ニ処分セシム | |
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日本の法令 | |
通称・略称 | 廃城令・城郭取壊令 |
法令番号 | 明治6年1月14日太政官(達) |
種類 | 金融法 |
公布 | 1873年1月14日 |
条文リンク | 法令全書 |
全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ存置ノ地所建物木石等陸軍省ニ管轄セシム | |
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日本の法令 | |
通称・略称 | 廃城令・城郭取壊令 |
法令番号 | 明治6年1月14日太政官(達) |
種類 | 防衛 |
公布 | 1873年1月14日 |
条文リンク | 法令全書 |
ウィキソース原文 |
概要
編集「存城」「廃城」の意味
編集太政官から達として陸軍省および大蔵省に発せられた文書で、今まで全国の城郭の土地建物については、陸軍省所管財産であったが、今後陸軍が軍用の財産として残す部分については存城処分、すなわち引き続き陸軍省所管の行政財産とするも、それ以外については廃城処分、すなわち大蔵省所管の普通財産に所管換えし、大蔵省において処分すべきものとした。
この場合の存城処分=陸軍省行政財産とは旧城郭陣屋を、現在の概念である「文化財」として土地や建造物を保存しようとするものではなく、陸軍の兵営地等として旧来の城郭建造物、石垣、樹木等を整理すべしとしたものである。その後、陸軍の兵営地とする目的で城郭建造物がすべて取り壊された若松城の例がある一方、一部の建造物が取り壊され、陸軍施設が設置されたが、天守等の主要な建造物やほとんどの遺構が現存し、国宝、特別史跡になっている姫路城の例がある。例外的に、存城処分として陸軍用地となった城郭であっても、彦根城のように、明治政府の特例政策[1]として城郭の土地と建造物が保存され、国宝、特別史跡となっているものもある。
また、廃城処分とは大蔵省の普通財産に所管換えし、地方団体や学校敷地等として売却するための用地となったものである。全国のほとんどの城郭陣屋の建造物が取り壊され、土地は払下げられた。ただし、犬山城や松本城のように、建造物が売却、取壊しの対象になったが、それぞれの理由により現存し、国宝、史跡になっているものもある。
後に行われた明治23年の不用「存城」払下
編集後に、1890年(明治23年)になって、陸軍省用地としたものの不用になった城郭である土地が、元藩主や地方団体に限り、公売によらず相当対価をもって払い下げられることもあった[2]。「旧城主は祖先以来数百年間伝来の縁故により、これを払い渡し旧形を保存し、後世に伝えるなら歴史上の沿革を示す一端となり好都合である」[3]ことを理由とした。「史跡としての文化財保護」のさきがけといえるが、史跡の法的な保護制度は、1919年(大正8年)制定の史蹟名勝天然紀念物保存法を待たなければならない。
文書の内容
編集「全国城郭及び軍事に関係する土地建物は、これまで陸軍省の所轄であったが、このたび、別冊一号のとおり、陸軍が必要とする分について改めて陸軍省所轄を仰せ付けられ、その残り第二号の旧来の城郭陣屋等は廃されたので、付属の建物木石に至るまですべて大蔵省に引き渡すので、陸軍省より受け取ったうえ、処分すべし」と、全国の城郭陣屋が陸軍省所管の行政財産と大蔵省所管の普通財産に振り分けられた。
出典
編集国立公文書館で保存
所蔵資料の分類:太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百十四巻・兵制十三・鎮台及諸庁制置四
請求番号:本館-2A-009-00・太00436100
本文の記載は以下のとおり。
- 一月十四日
- 陸軍省ヘ達
- 全国城郭及軍事ニ関渉スル地所建物是迄其省管轄ノ処今度別冊第一号ノ通陸軍必用ノ分改テ管轄被仰付其余第二号ノ通旧来ノ城郭陣屋等被廃候条附属ノ建物木石ニ至迄総テ大蔵省可引渡事
- 一 右管轄ノ土地へ屯営建築落成ノ上地所木石等有余ハ大蔵省へ可引渡地所不足スレバ更ニ撰定シ大蔵省協議ノ上伺出候ハヽ無代ニテ可相渡事
- 一 今後屯営地所練兵場等有用ノ節且全国防禦線決定ノ日ニ至砲墪塁壁等建築ノ地所ヘ無代ニテ可相渡候条其省ニ於テ撰定シ大蔵省協議之上可伺出事
- 一 木更津新潟水沢青森岐阜七尾兵庫大津敦賀浜田須崎浦千歳長崎十三ヶ所必用ノ区域相定大蔵省協議ノ上地所可受取事
- 大蔵省ヘ達
- 全国城郭及軍事ニ関渉スル地所建物是迄陸軍省管轄ノ処今度別冊第一号ノ通陸軍必用ノ分改テ同省管轄ニ被仰付其余第二号ノ通旧来ノ城郭陣屋等被廃候条附属ノ建物木石ニ至ル迄総テ其省へ可引渡ニ付同省ヨリ受取候上処分可致事
- 一 右管轄ノ土地へ築落成ノ上地所有余ハ其省へ引渡地所不足スレハ更ニ撰定シ其省協議ノ上伺出候ハヽ無代ニテ相渡スヘク筈ニ付地代等ハ於其省可取計事
- 一 今後屯営地所練兵場等有用ノ節且全国防禦線決定ノ日ニ至リ砲墪塁壁等建築ノ地所ハ陸軍省ニ於テ撰定シ其省ヘ協議ノ上伺出候ハヽ無代ニテ可渡筈ニ付地代等ハ是亦於其省可取計事
- 一 木更津新潟水沢青森岐阜七尾兵庫大津敦賀浜田須崎浦千歳長崎十三箇所必用ノ区域陸軍省ニ於テ相定其省協議ノ上地所可受取筈ニ付引渡方可取計事
なお、表記については出典によって異なっており、例えば法令全書の記載内容は上記とは若干ではあるが文面を異にする。
存城廃城の処分リスト
編集太字城は天守や御殿が現存するもの。 斜体城 は天守等の主要な建造物が第二次世界大戦で焼失したもの。
脚注
編集- ^ 「1878年(明治11年)10月29日陸軍省へ達」
今般特旨ヲ以彦根城郭保存ノ儀被仰候ニ付別紙ノ通滋賀県ヘ相達候条此旨相心得ヘシ
別紙11年10月29日滋賀県へ
今般特旨ヲ以テ彦根城郭保存ノ儀被仰候ニ付其県ニ於テ保存方担任スヘシ
但所轄ノ儀ハ従前ノ通知心得ヘシ
「彦根城保存の達」
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04028248400,明11.10『陸軍省大日記』(防衛省防衛研究所図書館) - ^ 『不用城郭中元藩主ニ於テ払受ヲ志願シ及散在地ノ官庁ニ於テ受払ヲ企望スルトキハ公売ニ付セス払渡シヲ認許ス』
明治二十三年二月一二日(決裁)
「別紙陸軍大臣請議不用城郭中元藩主ニ於テ払受ヲ志願シ及散在地ノ内官庁ニ於テ払受ヲ企望スルトキハ公売ニ付セス相当代価ヲ以テ払渡ノ件ハ来二十三年度以降ハ会計法ノ明文モ有之公売ニ付スヘキハ勿論ナレトモ本件ハ二十二年度中ニ執行ノ趣ニ付本議ノ通相当代価ヲ以テ売却ノ儀執行シ可然ト認ム
右閣議ニ供ス」
国立公文書館 明治二十三年『公文類聚第十四編巻之二十三』
請求番号 本館-2A-011-00・類00469100-050 - ^ 「不用城郭旧主へ払下代価の件」
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06080873700,明22.9.20『貳大日記9月』(防衛省防衛研究所図書館) - ^ 「1873年(明治6年)12月3日開拓使ヘ達」
其使管下函館五稜郭陸軍省所管被仰付候条同省ヘ可引渡比旨相達候事
「公達六年十二月三日」
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A07062412100,明18.11『記録材料・開拓使事業報告附録布令類聚上編・大蔵省』「地理衙署」(国立公文書館)
関連項目
編集外部リンク
編集- 明治6年1月14日太政官達『全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ存置ノ地所建物木石等陸軍省ニ管轄セシム』1873年1月14日。ウィキソースより閲覧。