徳川誠

日本の明治時代前期~昭和時代中期の男爵・政治家・実業家。江戸幕府15代将軍徳川慶喜九男。正四位

徳川 誠(とくがわ まこと、旧字体德川 誠󠄁1887年明治20年)10月31日 - 1968年昭和43年)11月11日)は、日本実業家政治家爵位男爵

徳川とくがわ まこと
德川 誠󠄁
男爵・徳川誠
生年月日 1887年10月31日
没年月日 (1968-11-11) 1968年11月11日(81歳没)
出身校 学習院中等科卒業
前職 浅野セメント監査役
所属政党 公正会
称号 正四位
男爵
配偶者 徳川霽子
親族 父・徳川慶喜(征夷大将軍・貴族院議員)
義父・名和長憲(貴族院議員)
兄・徳川厚(貴族院議員)
兄・池田仲博(貴族院議員)
兄・徳川慶久(貴族院議員)
義兄・徳川達孝(貴族院議員)
義兄・徳川圀順(貴族院議長)
義兄・蜂須賀正韶(貴族院副議長)
義兄・大河内輝耕(貴族院議員)
義兄・四条隆愛(貴族院議員)
甥・徳川慶光(貴族院議員)
甥・徳川喜翰(貴族院議員)
甥・大木喜福(貴族院議員)
甥・朽木綱博(貴族院議員)
甥・四条隆徳(貴族院議員)
甥・蜂須賀正氏(貴族院議員)

選挙区 貴族院男爵議員
当選回数 1回
在任期間 1946年5月 - 1947年5月2日
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浅野セメント株式会社監査役貴族院議員などを歴任した。

来歴

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生い立ち

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江戸幕府第15代征夷大将軍徳川慶喜の九男。幼少時に指物商の小長井勝次郎の元へ里子に出される(里子より戻って慶喜に挨拶をした際に、町方言葉で「チャン」と慶喜のことを呼び、周囲が大慌てした[1])。1891年(明治24年)4月、姉・英子とともに静岡高等小学校付属幼稚園に入る。1897年(明治30年)9月、弟・精とともに静岡から東京に移り、学習院に入学する。1908年(明治41年)3月、学習院中等科を卒業。同年、アメリカ合衆国ミシガン州ホープ・カレッジ英語版留学。後に山本重礼の養子となったものの、離籍する。さらに分家して一家の戸主となった。

実業家として

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アメリカから帰国後、横浜正金銀行に勤務した。アメリカやフランスの支店に赴任し、大正9年に帰国した。帰国後、横浜正金銀行を退職した。その後、浅野セメント監査役に就いた。その間の大正2年(1913年)11月5日には男爵を授けられた。昭和21年(1946年)5月、貴族院男爵議員補欠選挙にて貴族院議員に選出された[2][3]。貴族院では公正会に所属し、昭和22年(1947年)5月2日の貴族院廃止まで務めた[2]。墓所は谷中霊園寛永寺墓地。

栄典

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系譜

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脚注

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  1. ^ 女聞き書き 徳川慶喜残照
  2. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』78頁。
  3. ^ 『官報』第5815号、昭和21年6月5日。
  4. ^ 『官報』第382号「叙任及辞令」1913年11月6日。
  5. ^ 『官報』第4289号「叙任及辞令」1926年12月9日。
  6. ^ 『官報』第2394号「叙任及辞令」1934年12月22日。

参考文献

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  • 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』(第13版)、1939年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

関連項目

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日本の爵位
先代
叙爵
男爵
徳川家(慶喜家分家)初代
1913年 - 1947年
次代
華族制度廃止
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