息栖神社
息栖神社(いきすじんじゃ)は、茨城県神栖市息栖にある神社。国史見在社で、旧社格は県社。
息栖神社 | |
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拝殿 | |
所在地 | 茨城県神栖市息栖2882 |
位置 | 北緯35度53分8.90秒 東経140度37分30.48秒 / 北緯35.8858056度 東経140.6251333度座標: 北緯35度53分8.90秒 東経140度37分30.48秒 / 北緯35.8858056度 東経140.6251333度 |
主祭神 | 久那戸神(岐神) |
社格等 |
国史見在社 旧県社 |
創建 | (伝)第15代応神天皇年間 |
本殿の様式 | 入母屋造 |
札所等 | 東国三社 |
例祭 | 4月13日 |
地図 |
祭神
編集主祭神
相殿神
歴史
編集創建
編集社伝では、第15代応神天皇の代に日川の地(にっかわ:現・神栖市日川)に創建されたという[3]。その後大同2年(807年)4月13日、藤原内麻呂によって現在地に移転したと伝える[3]。
当社の名称について『日本三代実録』では「於岐都説神」と記される。また元亨元年(1321年)の古文書で「おきすのやしろ」と記されるように、当社は「おきす」と呼ばれていた[4]。この「おきつせ・おきす = 沖洲」という古称から、香取海に浮かぶ沖洲に祀られた神であると考えられている[5]。祭神が久那戸神(岐神)・天鳥船命であることからも水上交通の神であることが示唆され[5]、鹿島・香取同様に東国開発の一拠点であったという見方もある[5]。
概史
編集国史では、『日本三代実録』において仁和元年(885年)に「於岐都説神」が正六位上から従五位下に叙されたという記事が見える。この「於岐都説神」は当社を指すものとされるが[3]、『延喜式神名帳』には記載がないため、いわゆる国史見在社にあたる。
当社は古くから香取神宮・鹿島神宮と並んで「東国三社」と称されたといわれる。ただし地理的な関係から鹿島神宮の影響が強く、当社は同宮の摂社とみなされていた。鎌倉時代の『鹿島社例伝記』や室町時代の『鹿島宮年中行事』から、鹿島神宮と当社の密接な関係性が指摘される[2]。また当社は朝廷からの崇敬を受け、元寇の際にも国家安泰を祈願するために勅使が派遣されたという。
江戸時代には徳川家の崇敬が篤く、慶長9年(1604年)に鹿島神宮領から14石が給された[6]。またこの時代には、「下三宮参り」と称して関東以北の人々が伊勢神宮参拝後に東国三社を巡拝する慣習があったという[6]。参拝客が利用する息栖の河岸は利根川水運の拠点として江戸時代から大正時代まで栄えたという。
明治維新直後の明治元年(1868年)と明治4年(1871年)には当社に勅使が派遣された。明治10年(1877年)、独立した神社として近代社格制度において県社に列した[5][注 1]。
神階
編集境内
編集社殿は戦後の昭和35年(1960年)に火災で焼失した。焼失した社殿は享保7年(1722年)造営で、華麗なものであったという[6]。現在の社殿は、3年後の昭和38年(1963年)の再建のものである。鉄筋コンクリート造りで本殿・幣殿・拝殿からなる。神門は弘化4年(1847年)の造営時のもので、焼失を免れている[3]。
一の鳥居の両側には「忍潮井(おしおい)」と呼ばれる2つの井戸があり、「日本三霊泉」の1つという[3]。社伝では神功皇后3年に造られたとし、日川からの移転に際して後から自力でついてきたという[2]。井戸はそれぞれ「男瓶」「女瓶」という名の2つの土器から水が湧き出ているが、現在の井戸は昭和48年(1973年)5月に河川改修のため移転している[3]。
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本殿
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神門
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忍潮井(男瓶)
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忍潮井(女瓶)
摂末社
編集- 4柱合祀社
- 鹿島神社、伊邪那岐神社、高房神社、奥宮
- 5柱合祀社
- 香取神社、手子后神社、八龍神社、江神社、若宮
- 稲荷神社
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4柱合祀社(左)と5柱合祀社(右)
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稲荷神社
祭事
編集現地情報
編集所在地
交通アクセス
- バス
- 高速バス・路線バスで「鹿島セントラルホテル」バス停下車 (下車後徒歩約30分)
- 神栖市コミュニティバスで「息栖神社」バス停下車(本数少)
- 車(タクシー)
脚注
編集注釈
- ^ 現在、当社の由緒書・境内表記では鹿島神宮の摂社であるという記載はないが、鹿島神宮側では当社は独立した神社であるが現在も摂社であるとしている(『新鹿島神宮誌』pp. 56-57)。
出典
参考文献
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 息栖神社 - 公式サイト