昌福寺 (刈谷市)

日本の愛知県刈谷市にある寺院

昌福寺(しょうふくじ)は、愛知県刈谷市野田町西屋敷2-1にある浄土宗鎮西派の寺院。山号は寿永山。本尊は阿弥陀如来法然上人三河二十五霊場第17番札所。

昌福寺
所在地 愛知県刈谷市野田町西屋敷2-1
位置 北緯34度58分52.9秒 東経137度01分30.7秒 / 北緯34.981361度 東経137.025194度 / 34.981361; 137.025194座標: 北緯34度58分52.9秒 東経137度01分30.7秒 / 北緯34.981361度 東経137.025194度 / 34.981361; 137.025194
山号 寿永山
宗旨 浄土宗
宗派 鎮西派
本尊 阿弥陀如来
創建年 応永15年(1408年)
開山 永専
札所等 法然上人三河二十五霊場(第17番)
法人番号 7180305004671 ウィキデータを編集
昌福寺 (刈谷市)の位置(日本内)
昌福寺 (刈谷市)
昌福寺 (刈谷市)の位置(愛知県内)
昌福寺 (刈谷市)
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歴史

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応永15年(1408年)、永専によって創建された。当初は真宗高田派の寺院であり、涼清院永専坊と称していた。稲垣氏の居城とされる野田城は昌福寺や野田八幡宮や教栄寺の付近にあったとされる。天正18年(1590年)には野田城が廃城となっている。承応元年(1652年)に浄土宗に改宗し[1]、寿永山昌福寺に改称した。

寛政2年(1790年)には刈谷城主の土井氏が高掛金を命じたことから、三河国刈谷藩領で寛政一揆が起こった。その発端として昌福寺では小垣江の専称寺とともに寺参会が開かれ[1]、各村の百姓代が気勢を上げた。刈谷町から参加して百姓らに演説した中町善造は、一揆の首謀者とみなされて入獄している。

1967年(昭和42年)には文化功労者の加藤与五郎が静岡県熱海市の自宅で死去し、昌福寺で葬儀が行われた[2]

境内

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「フェライトの父」とされる化学者の加藤与五郎や、「VHSの父」とされる技術者の高野鎮雄菩提寺である。

  • 本堂
  • 薬師堂
  • 鐘楼
  • 手水舎
  • 三十三観音
  • 地蔵菩薩

所在地

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所在地
アクセス

脚注

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  1. ^ a b 刈谷市 歴史の小径 重原・半城土・野田”. 刈谷市. 2021年5月5日閲覧。
  2. ^ 加藤与五郎 刈谷市
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