本多忠伸
本多 忠伸(ほんだ ただのぶ)は、陸奥国泉藩の第7代(最後)の藩主。忠以系本多家10代。
本多忠伸 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 嘉永5年1月22日(1852年2月11日) |
死没 | 明治36年(1903年)3月5日 |
墓所 |
東京都墨田区向島の弘福寺 福島県いわき市泉の忠伸公霊位泉住院 |
官位 | 従五位、兵庫助、正五位、従四位、正四位、従三位、宮中祗候 |
主君 | 明治天皇 |
藩 | 陸奥泉藩主 |
氏族 | 本多氏→本多氏(平八郎家) |
父母 |
父:本多忠行 養父:本多忠紀 |
妻 | 遠山景明の四女・春子 |
子 | 忠彦、忠晃 |
略歴
編集嘉永5年(1852年)1月22日、本多忠行の長男として誕生した。第6代藩主・本多忠紀が戊辰戦争において旧幕府軍に与して新政府軍に抵抗したため、明治元年(1868年)12月に忠紀は強制隠居処分に処された。このため、養子である忠伸が家督を相続した。このとき、所領も2万石から1万8000石に減封された。
明治2年(1869年)の版籍奉還で泉藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免職された。明治36年(1903年)3月5日に死去した。享年52。
系譜
編集父母
妻
- 遠山春子 ー 遠山景明の四女
子女