本多忠国

江戸時代前期の大名。大和国郡山藩、陸奥福島藩を経て播磨姫路藩初代藩主

本多 忠国(ほんだ ただくに)は、江戸時代前期の大名。大和国郡山藩陸奥福島藩を経て播磨姫路藩の初代藩主。忠勝本多家宗家6代。

 
本多 忠国
本多忠国像
時代 江戸時代前期
生誕 寛文6年(1666年
死没 宝永元年3月21日1704年4月24日
別名 平八郎(通称
官位 従五位下・中務大輔、従四位下・侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
大和国郡山藩主→陸奥福島藩主→播磨姫路藩
氏族 水戸松平氏本多氏
父母 父:松平頼元、母:小笠原忠真の娘
養父:本多政長
兄弟 松平頼貞忠国松平頼愛、胤(相馬昌胤正室)、長(松平直丘正室)、久米
正室池田綱政の娘
長男、次男、忠孝
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生涯

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陸奥守山藩主・松平頼元の次男に生まれる。水戸藩初代藩主・徳川頼房の孫で、第2代藩主・徳川光圀の甥にあたる。大和国郡山藩本多政長の養子となり[1]、政長死後、家督相続と同時に福島15万石に転封、その後姫路15万石に転封となる。

藩主在任中に死去し、家督は3男の忠孝が継いだ。

経歴

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官位位階

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系譜

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     ┏政朝━政長
     ┃
本多忠政━┫   松平頼元
     ┗亀姫  ┣本多忠国
       ┣━嘉禰
      小笠原忠真

父母

正室

子女

長男、次男は早世

墓所・霊廟

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  • 兵庫県姫路市の圓教寺に本多家廟屋があり、忠国の廟所は宝永元年(1704年)に建立された[2]

逸話

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赤穂浪士吉田兼亮の娘婿伊藤治興が家臣にいる。1703年元禄16年)に吉田兼亮の遺児吉田兼直(幼名は伝内)が連座して伊豆大島へ遠島となると、幕府に許可されている持ち込み上限の金20両・米20俵のぎりぎりに近い、金19両米19俵を伝内に贈って支援している。

脚注

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  1. ^ 忠国の外祖母亀姫本多忠政の娘であるため、忠国は本多家の血を引いていた。忠国にとって養父・政長は従伯父にあたる。
  2. ^ 本多家廟屋”. 姫路市. 2021年1月12日閲覧。
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