本多政信
本多 政信(ほんだ まさのぶ)は、江戸時代前期の大名[1]。大和郡山藩支藩(部屋住み領)主[注釈 1]。政信系本多家初代。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永11年(1634年)[1] |
死没 | 寛文2年4月20日(1662年6月6日)[2] |
別名 | 七幡次郎[2]、監物[2] |
戒名 | 覚了院殿英真哲翁大居士[2] |
墓所 | 高野山の大徳院[2] |
官位 | 従五位下[2] 大監物 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱 |
藩 | 大和国郡山藩支藩主 |
氏族 | 本多氏(平八郎家) |
父母 | 父:本多政朝、養父:本多政勝 |
兄弟 | 政長、政信 |
子 | 養子:忠英 |
生涯
編集忠勝系本多家関連系図 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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寛永11年(1634年)[1]、播磨姫路藩主・本多政朝の三男として、姫路に生まれる[2]。政朝は本多忠勝の長男である忠政の二男で、忠勝系本多家(本多平八郎家)の宗家の当主であった。
父の政朝は、寛永15年(1638年)11月20日に死去した[3]。政朝の嫡男(政信の兄)である政長[4]は幼少であったため[3]、寛永16年(1639年)3月3日に政朝の従兄弟である本多政勝(姫路藩支藩主)が平八郎家宗家を継承することが認められた[3][2][注釈 2]。この際幕命によって政長・政信兄弟は政勝の養子となり[3][2]、政長が政勝の嗣子とされた[3]。また、このときに平八郎家宗家は姫路から大和郡山藩に移され、政勝は15万石を治めることとなった[2]。政勝はさきに政朝から姫路において部屋住み領[6]として4万石を分知されていたが[注釈 3]、この4万石の領知は政勝の実子・本多勝行に与えられて大和国に移された[3][5]。
正保元年(1644年)11月28日、政信(11歳)は将軍・徳川家光に御目見した[2]。
寛文11年(1650年)、本多勝行が16歳で死去[3][6][5]。承応2年(1653年)、勝行の旧領である4万石は政長・政信兄弟に分けられた[3][2]。政信は大和国6郡(葛上郡・忍海郡・平群郡・十市郡・葛下郡・高市郡)内で1万石を与えられ、郡山城内に住した(部屋住み)[2]。明暦2年(1656年)9月11日、はじめて領地入りの暇を与えられる[2]。寛文元年(1661年)12月28日、従五位下に叙せられ[2]、監物を称した[2]。
寛文2年(1662年)4月20日、29歳で死去した[2]。嗣子がなかったため、政勝の子・本多忠英[注釈 4]が末期養子となって跡を継いだ[8]。
系譜
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 「郡山新田藩」ともされる[要出典]。
- ^ 政朝の正室は忠朝の娘であるため[3][5]、政勝は政朝の義理の兄弟にもあたる。
- ^ この知行は、本多忠朝が知行した5万石が起源となっている。元和元年(1616年)、本多政朝は幕命により、大坂の陣で戦死した叔父・忠朝の遺領である大多喜藩5万石を継いだ[7]。その後、政朝は播磨龍野藩に移封され、さらに兄・本多忠刻の知行の一部を併せて姫路に移転するが、寛永8年(1631年)に政朝が父の死により家督を継いだ際、旧領5万石のうち4万石が忠朝の子である本多政勝に、1万石が政朝の弟・本多忠義に分知された[3][5]。
- ^ 初名は政貞。『寛政譜』では「五男」とするが[8]、養子2名を含めた数え方である。
出典
編集- ^ a b c “本多政信”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2024年4月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十二「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.640。
- ^ a b c d e f g h i j 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十一「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.635。
- ^ “本多政長”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2024年4月29日閲覧。
- ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十三「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.651。
- ^ a b “本多勝行”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2024年4月29日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十一「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.634。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十二「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.641。