松平正直
松平 正直(まつだいら まさなお、天保15年2月26日(1844年4月13日) - 大正4年(1915年)4月20日)は、日本の武士(福井藩士)、官僚、政治家、実業家。内務次官、県知事、貴族院議員、枢密顧問官、錦鶏間祗候、男爵。幼名・源太郎。字は子大。稲香、松坪と号す。
生涯
編集福井藩士・松平正泰の次男として生まれる。安政5年(1858年)に家督を相続。大番頭を務める。慶応3年(1867年)、坂本龍馬が福井を訪れ、三岡八郎(後の由利公正)と面談した際は、当時、八郎が幽閉中であったことから、用人であった正直(当時は源太郎と称した)と、目付の出淵伝之丞が立ち会った[1]。戊辰戦争に会津征討越後口軍監として従軍。明治2年(1869年)、福井藩少参事となる。
明治3年9月(1870年9 - 10月)、明治政府の民部省に出仕。明治6年(1873年)11月、内務省が新設され内務少丞に就任。内務権大書記官を経て、明治11年(1878年)7月、宮城県権令となる。同県令を経て、明治19年(1886年)7月、初代宮城県知事に就任。宮城県知事としては、産業振興、土木、教育施策の推進に努めた。産業を振興するために交通整備の必要性を認識し、野蒜築港と関連する道路の改修、水路の開削に着手し、道路整備に当たって旧慣人足使役法を適用した。教育面では、明治19年(1886年)に、富田鐵之助(のち日銀総裁)とともに東華学校を設立した。明治24年(1891年)4月、熊本県知事に発令された。明治25年(1892年)2月の第2回衆議院議員総選挙において選挙干渉を行い死傷者が出ている。
明治29年(1896年)11月、内務次官に就任し明治30年(1897年)1月まで在任。同年12月23日、貴族院勅選議員に任じられ[2]、明治43年(1910年)10月19日[3]まで務めた。明治31年(1898年)11月、錦鶏間祗候に任じられ[4]、また内務次官に再任され明治32年(1899年)4月まで在任。
明治33年(1900年)5月、男爵を叙爵した。その後、日本教育生命会社社長などを務めた。明治39年(1906年)4月1日、勲一等旭日大綬章を受章。明治43年(1910年)10月、枢密顧問官に就任した。
栄典
編集- 位階
- 1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[6]
- 1891年(明治24年)6月25日 - 従三位[7]
- 1897年(明治30年)2月10日 - 正三位[8]
- 1915年(大正4年)4月19日 - 正二位[9]
- 勲章等
親族
編集脚注
編集- ^ 三岡丈夫 編『由利公正伝』126 - 127頁 光融館出版、1916年。
- ^ 『官報』第4346号、明治30年12月24日。
- ^ 『官報』第8200号、明治43年10月20日。
- ^ 『官報』第4604号、明治31年11月2日。
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)26頁。
- ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
- ^ 『官報』第2399号「叙任及辞令」1891年6月30日。
- ^ 『官報』第4081号「叙任及辞令」1897年2月12日。
- ^ 『官報』第813号「叙任及辞令」1915年4月21日。
- ^ 『官報』第1172号「叙任及辞令」1887年5月28日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』第3451号「叙任及辞令」1894年12月27日。
- ^ 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。
- ^ 『大日本婦人録』(婦女通信社、1908年)p.665
- ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』下巻、637頁。
参考文献
編集関連項目
編集外部リンク
編集公職 | ||
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先代 松岡康毅 鈴木充美 |
内務次官 第6代:1896年 - 1897年 第10代:1898年 - 1899年 |
次代 中村元雄 小松原英太郎 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 松平(正直)家初代 1900年 - 1915年 |
次代 松平外与麿 |