柳沢信尹
柳沢 信尹(やなぎさわ のぶただ)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本。通称は助九郎、のち八郎右衛門、豊後守、備後守。官位は従五位下。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 万治2年(1659年) |
死没 | 享保9年7月15日(1724年9月2日) |
別名 | 助九郎、八郎右衛門、豊後守、備後守(通称) |
戒名 | 信尹 |
墓所 | 宗参寺 |
官位 | 従五位下 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家綱、綱吉、家宣、家継、吉宗 |
氏族 | 山高氏、柳沢氏 |
父母 |
山高信吉、柳沢安忠娘 柳沢吉次 |
兄弟 | 信尹、時附ら |
妻 | 横山刑部左衛門娘、山高信澄娘 |
子 |
信孝、酒井忠道、赤井盤公養女、 大久保忠香養女、川窪信安養女、 柳沢信孝養女、山高信蔵室、神保定興室ら7男9女 |
略歴
編集宝永6年(1709年)、日本に密入国したイタリア人宣教師のシドッチが江戸・小石川の切支丹屋敷に収監されると、当時宗門改役を務めていた信尹は儒学者の新井白石らと共に彼の取調べを行った。
信尹の死後、長男の信孝が家督を継いだ。
年表
編集※日付は旧暦
- 寛文4年(1664年)12月10日 - 養父・吉次の家督を継ぐ(300俵)。小普請入り。
- 延宝7年(1679年)2月3日 - 大番の番士となる。
- 元禄3年(1690年)9月25日 - 大番組頭となる。
- 元禄6年(1693年)12月18日 - 100俵加増される。
- 元禄13年(1700年)2月15日 - 船手頭となる。
- 元禄13年(1700年)12月22日 - 200俵加増される。
- 元禄14年(1701年)3月 - 蔵米を知行地に改められて、新たに武蔵国多摩郡上・下小山田村、都筑郡恩田村に600石を与えられる。
- 元禄16年(1703年)3月15日 - 目付となる。
- 宝永3年(1706年)12月15日 - 武蔵国多摩郡下柚木村[1]、相模国愛甲郡林村に200石を加増される(都合800石)。
- 宝永4年(1707年)12月1日 - 作事奉行となる。翌日、宗門改役を兼任する。
- 宝永5年(1708年)2月15日 - 江戸城吹上花畑(後の吹上御苑)の営築を命じられる。
- 宝永6年(1709年)11月22日 - 新井白石らと共にイタリア人宣教師シドッチの尋問を行う。
- 宝永7年(1710年)閏8月12日 - 徳川綱重霊廟の造営を命じられる。
- 正徳2年(1712年)11月25日 - 紅葉山・徳川家宣霊廟造営の「御作事司」に任じられる。
- 正徳4年(1714年)5月3日 - 仙波東照宮・世良田東照宮・三芳野神社の修理を命じられる。
- 正徳4年(1714年)6月2日 - 紅葉山・家宣霊廟の神位をうつす儀式に、霊廟造営の功をもって狩衣を着しての伺公を許される。
- 正徳5年(1715年)2月23日 - 宗門改役の任を解かれる。
- 享保4年(1719年)4月19日 - 鷹坊造営の功により褒詞を賜る。
- 享保4年(1719年) - 来日した朝鮮通信使の御用を務める。
- 享保6年(1721年)10月15日 - 寛永寺本坊の修理を命じられる。
- 享保9年(1724年)1月11日 - 槍奉行となる。
- 享保9年(1724年)7月15日 - 死去。享年66。宗参寺(実家・山高家の墓所)に葬られる。法名、信尹。
系譜
編集子女は7男9女
関連する史跡
編集寺院
編集- 徳恩寺 - 元禄14年(1701年)に、信尹が駕籠などを寄進した寺院。神奈川県横浜市青葉区恩田町(当時は知行地の恩田村)に現存。真言宗[2]。
- 泉蔵寺 - 正徳5年(1715年)に、信尹が知行地の下小山田村(現在の東京都町田市下小山田町)に建立した寺院。現存。曹洞宗。