栄叡
生涯・人物
編集興福寺に住して法相教学を学び、733年に出家者に正式な戒を授けるための伝戒師を招請するため、普照とともに第十次遣唐使船で難波津を出航し唐へ渡った[3]。唐では洛陽の大福先寺で「三師七証」の儀式で具足戒を受け、大福先寺にいた僧道璿に来日を要請した[3]。唐にとどまること10年目にして揚州大明寺の鑑眞に拝謁し、改めて日本へ渡ることを要請した。鑑眞は渡航することを決意し、数次にわたり渡航を決行したが失敗し、6度目にしてようやく日本へ渡ることができた。しかし、この間に榮叡は、749年に病を得て端州龍興寺で死去した。苦楽を共にした普照とは親友同士であり、榮叡の最期を看取ったのも普照である。榮叡が亡くなった際に、普照は我を忘れて号泣したと伝わる。
関連項目
編集脚注
編集- ^ 第2版,世界大百科事典内言及, デジタル版 日本人名大辞典+Plus,世界大百科事典. “栄叡(ようえい)とは”. コトバンク. 2019年3月17日閲覧。
- ^ “岐阜県仏教会HP 栄叡大師”. bukkyogifu.net. 2019年3月17日閲覧。
- ^ a b 鳥越泰義『正倉院薬物の世界 日本の薬の源流を探る』(初版)平凡社(原著2005年10月11日)、125頁。ISBN 4-582-85296-3。