森川重俊
下総生実藩初代藩主。江戸幕府の老中。森川氏俊の三男。従五位下、出羽守。子に森川重頼(三男、重久)
森川 重俊(もりかわ しげとし)は、下総生実藩の初代藩主。江戸幕府の老中である。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正12年(1584年) |
死没 | 寛永9年1月25日(1632年3月15日) |
戒名 | 活国正英重俊院 |
墓所 | 千葉県千葉市中央区の重俊院 |
官位 | 従五位下、出羽守 |
幕府 | 江戸幕府老中 |
藩 | 下総生実藩主 |
氏族 | 森川氏 |
父母 | 父:森川氏俊、母:大村氏 |
兄弟 | 氏信、正次、重俊、成瀬正成室、長谷川正吉室、土屋忠直室、稲垣重綱室 |
妻 | 正室:大久保忠隣の養女(設楽貞清の娘) |
子 |
重政、重名(次男)、重頼(三男)、 娘(溝口宣直継室)、娘(坂部広利室)、 娘(服部正勝室) |
生涯
編集天正12年(1584年)、森川氏俊の三男として生まれた。
慶長2年(1597年)、徳川秀忠の近習となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠軍に属して、信濃上田城にて真田昌幸と戦った。慶長14年(1609年)に下野国内に3000石を与えられる。しかし慶長19年(1614年)、大久保忠隣の改易に伴い、忠隣の養女(実は姪、大久保忠世の外孫)を娶っていたことから連座して改易となり、酒井家次に身柄を預けられた。
慶長20年(1615年)、大坂夏の陣において酒井家次に属して出陣して武功を挙げたため、赦免および再登用され、秀忠の近習として復帰した。寛永4年(1627年)に下総生実藩を中心に下総・上総・相模国内で1万石を与えられ、その初代藩主となった。寛永8年(1631年)に老中となった。
寛永9年(1632年)1月24日に秀忠が死去すると、翌25日にその後を追って自害した。殉死した理由は、秀忠より衆道の寵愛を蒙ったことはもとより、親秀忠、親忠長派であったことから、後継者である家光より改易される事を恐れたためでもあると言われている。享年49。
正室との間に3男3女がおり、長男である重政が跡を継いだ。
墓所は千葉市の重俊院にある(森川家累代の墓碑、市指定文化財)[1]。
系譜
編集父母
- 森川氏俊(父)
- 大村氏 ー 側室(母)
正室
子女
出典
編集- ^ “森川家累代の墓碑(市指定文化財)”. 千葉市. 2020年3月30日閲覧。