樺太

オホーツク海の南西部にある島

樺太(からふと)またはサハリンロシア語: Сахалин)は、ユーラシア東方、オホーツク海の南西部にある島。南北約948km、東西約160kmで南北に細長く、面積は約76,400km2で、北海道(78,073km2)よりやや小さい。樺太島(からふととう)、サハリン島(サハリンとう)ともいう。日本が実効支配していた頃は樺太という名称以外ではサガレンが一般的に用いられていた。

樺太島
樺太
所在地 北樺太: ロシアの旗 ロシア
南樺太(北緯50度以南): 帰属未定(実効支配: ロシアの旗 ロシア
所在海域 オホーツク海日本海
座標 北緯45度54分 - 北緯54度20分
東経141度38分 - 東経144度45分
面積 76,400 km²
最高標高 1,609 m
最高峰 ロパチン山
最大都市 ユジノサハリンスク
(旧豊原市
プロジェクト 地形
テンプレートを表示

樺太は、北部と南部でそれぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度線以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。

概要

編集

近世以前、樺太にはアイヌウィルタニヴフなどの先住民が居住しており、主権国家の支配は及んでいなかった。

近代以降、樺太の南に隣接する日本と、北西に隣接するロシアとが競って樺太への領土拡張を求めて植民を進め、多くの日本人とロシア人が樺太へ移住するようになった。

1855年安政2年)の日露和親条約では樺太には明確な国境が設けられず、日本とロシアとが混住する土地のままとされた。

1875年明治8年)の樺太千島交換条約によって、以前から日本領であった北方領土にくわえて千島列島得撫島から占守島)を日本領とする代わりに、樺太の全土がロシア領と定められた。

1905年(明治38年)から1945年(昭和20年)までは、北緯50度線を境に、樺太の南半分(南樺太)を「樺太(カラフト)」として日本が、北半分(北樺太、北サハリン)を「サハリンロシア語Сахалин」としてロシア及びソビエト連邦が領有していた。日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された[1]

第二次世界大戦末期、沖縄県における沖縄戦に続いて、日本本土(内地)最後の市街戦が行われた地である(1945年8月の樺太の戦い)。

戦後はソビエト連邦及びロシア連邦が樺太南部も実効支配している。人口約50万人で最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(人口約20万人。日本名: 豊原)。現在、サハリンプロジェクトが進められている。

名称

編集

「からふと」の名の語源は、古くより諸説あり[2]、今のところ決着はついていない[3]

樺太アイヌ語では、「陸地の国土」を意味するヤンケモシリと呼ばれ[4]北海道アイヌ語ではカラㇷ゚ト Karapto と呼ばれる[5]

また、日本語の「唐人(からひと)」がなまって「からふと」となったとの説もある[6]

古くは「からと」とも書かれた。1646年(正保3年)に成立した松前藩の歴史書『新羅之記録』に「唐渡之嶋」として見え、正保日本図にも「からとの嶋」が描かれている。1669年(寛文9年)の史料では「からふと」(「奉言上覚」『津軽一統志』)「からふとの島」(『蝦夷蜂起注進書』)という表記が確認できる[7]1700年(元禄13年)の『松前島郷帳』には「からと嶋」とある。1704年(宝永元年)に蝦夷地へ渡った正光空念の史料では「からふと」「からふと嶋」という表記が多いものの、「唐ふとう嶋」「からふとふしま」「からとのしま」といった表記も見られる[8]

1783年(天明3年)の『加模西葛杜加国風説考』では「カラフトの北にサカリインといふ大嶋有」とし、同書の付図では「カラフト」を大陸と地続きの半島として描き、別に「サカリイン」を島として描いている[9]。1785年(同5年)の『三国通覧図説』においても「カラフト嶋」は大陸の半島として描かれ、別に「北海中ノ一大国」として「サガリイン」を描いている。1808年(文化5年)から1809年(文化6年)に亘って行われた間宮林蔵等の調査により樺太が島である事が確認された、1809年(文化6年)以降は東西の蝦夷地に対して北蝦夷地とも呼ばれた(それ以前は西蝦夷地に含まれた)。その後、明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり「樺太」という漢字表記が定められる[10]

「サハリン」(古くは「サガレン」と表記[11])という名称は、清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じた清国版図測量の際に、黒竜江(満州語名:ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
ᡠᠯᠠ
転写:sahaliyan ula、サハリヤン・ウラ)河口の対岸に島があると聞き、そこを満州語でサハリヤン・ウラ・アンガ・ハダ(ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
ᡠᠯᠠ
ᠠᠩᡤᠠ
ᡥᠠᡩᠠ
転写:sahaliyan ula angga hada、「黒竜江の対岸の島」)と呼んだことに由来する。ポーツマス条約調印以降の日本では、単に「樺太」と言えば南樺太を指したため、北樺太を指してサガレン(薩哈嗹)と呼ぶ場合もあった。「サガレン州派遣軍」などは、その一例である。

中国語ではの時代の呼び名である「庫頁島」(くげちとう、クーイェダオ、由来は苦夷)と呼ばれる。また、ロシア語の音訳である「薩哈林島」(サハリンダオ)も使われる。

地理

編集
 
50度線が強調されている樺太の地図
 
冬 (左) と夏 (右) の樺太と周辺の衛星写真
 
樺太と周辺の町

樺太は、ユーラシア大陸の東方、北海道の北方に位置しており、北緯45度54分から54度20分、東経141度38分から144度45分にかけて広がる島である。島は南北に細長く、東西の幅が最大で約160km(最狭部は約26km)であるのに対し、南北は約948kmにも及ぶ。島の面積は北海道よりやや小さく76,400km2である(北海道本島の面積は77,981.87km2)。その面積のうちの約70%は山岳地帯によって占められており、平地は北部に集中している。

樺太は、南の北海道とは宗谷海峡により、また、西のユーラシア大陸とは間宮海峡により隔てられている。島の北岸および東岸はオホーツク海に面している。なお、2万年ほど前の氷期には海水面が低下しており、今日のユーラシア大陸・樺太・北海道は互いに地続きだったと考えられている。

樺太の最北端は、シュミット半島の先端に位置している鵞小門岬(がおとみさき、別名:エリザベス岬、エリザベート岬とも)である。シュミット半島から西方の樺太北岸から、対岸の大陸側であるアムール川河口地域の北岸までの海岸線を一続きとみると南に湾曲した湾状の海岸線となっている。この湾はサハリン湾と呼ばれている。

南の宗谷海峡に対しては、西側から能登呂半島が、また東側から中知床半島が突き出ており、これら2つの半島の間には南に開く亜庭湾(アニワ湾)がある。能登呂半島の先端は樺太の最南端となる西能登呂岬である。中知床半島の先端は中知床岬である。

樺太の西方はユーラシア大陸との間に間宮海峡が横たわっている。間宮海峡の最狭部は黒龍水道と呼ばれ、その幅は約7.3kmである。

東方のオホーツク海に対しては、島の中南部から北知床半島が突き出ている。先端の北知床岬から西方は北へ向かって海岸線が湾曲し、その湾は多来加湾(タライカ湾)と呼ばれている。

樺太の気候亜寒帯モンスーン気候に属する。夏季湿度が高く、が多く発生し、日照時間が少なくなる。冬は日本海側で雪が多くなるものの、オホーツク海側と比較して冷え込みは緩む。南西部は対馬海流暖流)の影響を受け比較的温暖であり冬季も海は結氷しないが、北東に行くにしたがい東樺太海流寒流)の影響を受け気温が低く冬季は海が結氷する。オホーツク海側では乾燥し、厳しい寒さとなり、海が氷結すると晴天が続く。また、夏と寒暖の差は大きい。海洋の影響が大きい南樺太と比べ、大陸の影響を受けやすい北樺太は特に気温差が大きく、2018年現在まで観測されている最高気温記録は、ノグリキで1977年7月に観測された39度、最低気温記録はティモフスコエで1980年1月に観測されたマイナス50度であり、寒暖差の大きさがデータでも確認することができる。

植物の分布境界線として北樺太西海岸のヅエと南樺太東岸の内路を結ぶシュミット線が有名であり、日本固有種の分布はこの線より南側で、北側は針葉樹林などシベリア系の様相となっている。動物の分布境界線は八田線(宗谷線)があり、宗谷海峡を挟み樺太と北海道で両生類爬虫類などの分布が異なっている。

樺太は、石油天然ガスなどの豊富な地下資源にも恵まれている。

地理的な意味合いでの日本列島の中では、本州北海道に次ぎ、3番目に大きい島である。

主な山岳

編集

主な湖沼

編集

主な河川

編集

島嶼

編集

民族

編集
 
ピウスツキが撮影した樺太アイヌ(1900年代)
北樺太

ニヴフのほか、東部(幌内川ロモウ川の流域)にはウィルタも居住。

南樺太

樺太アイヌのほか、北東部(幌内川の流域、敷香郡や散江郡など)のウィルタニヴフといった北方少数民族がいる。1905年から1945年までの日本統治下の南樺太では樺太庁はアイヌ(樺太アイヌは当初は樺太土人とされていたが、1932年1月に戸籍法上は内地人となった)を除く樺太先住民(ウィルタ、ニヴフなど)はオタスの杜に集住し戸籍法上は樺太土人と扱って内地人と区別されていたが、日本国籍を付与していた。樺太の先住民は南樺太に居住して日本国籍を与えられていたために、ソ連による樺太占領後は残留せざるを得ない事情を持った者を除き北海道以南に追放されている。日本では終戦後の1945年にアイヌを除く樺太先住民の参政権が停止されたものの、1952年のサンフランシスコ平和条約発効の際に就籍という形で参政権を回復した。現在の樺太住民の中にはアイヌを名乗る者が若干名存在するものの、統計が取られていないために詳細は不明である。

ギャラリー

編集

南樺太

編集
 
王子製紙豊原工場。

北緯50度線以南を指す南樺太はアイヌの居住地で、ニヴフウィルタは、50度線に近い東岸の幌内川流域周辺のみに分布する。日本施政下においては樺太と呼ばれる行政区画であった。地方行政官庁として樺太庁が設置され、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に外地から内地へと編入された。人口1945年(昭和20年)当時、約40万人であった。当時の主要な産業は漁業農業林業製紙業パルプなどの工業石炭石油採掘業など。南樺太の中心都市は、樺太庁の置かれた豊原市ユジノサハリンスク)。

1995年(平成7年)より稚内 - コルサコフ - 小樽[注釈 1]を結ぶ日露定期航路が開設されており、稚内港より船で渡航が可能である[12]。なお、稚内とコルサコフ間に定期航路が就航したのは50年ぶりである[12]

石炭産業

編集

1905年、明治政府は、樺太南部から中部までの地層を細かく調査、本州へも移出。塔路町周辺では良質の無煙炭が多く採れた。その富を求めて、人口が増加、塔路小学校では三千名の児童を抱え、六十名の教員が在職、「日本最大の小学校」と言われた[注釈 2][13]

亜庭湾

編集

樺太の留多加は比較的に温暖であり、農耕にも適しているが、亜庭湾においてホッキガイなどを採取し、採取後には暖を取るためたき火などもしていた[要出典]

林業と製紙業

編集

1905年(明治38年)の祖国復帰後、明治政府は蝦夷松椴松パルプの原料となることを調査・研究によって突き止め、1914年(大正3年)、第一次世界大戦特需景気の恩恵を受け急成長を遂げる。王子製紙富士製紙樺太工業による三社寡占状態であったが、1933年(昭和8年)に王子製紙が競合二社を吸収合併、王子製品は本州へも移出された。また同時期には木材業者の合併も行われ、樺太木材統制組合が設立された。

森林伐採は、開発と不可分で進行するが島内ですべてを消費できることもなく、木材の島外への移出は活発となった。移出量は、1929年(昭和4年)にピークを迎え約1,300万石を記録。しかしその後は漸減し、第二次世界大戦直前の1941年(昭和16年)には約10万石に落ち込んだ。戦争中は、木材を運搬する船舶が不足し、積み出しが不能になったまま終戦を迎えた[14]

新聞

編集

日刊紙だけでも十紙以上が発行されていた(後、読売新聞社が経営、日刊各紙は読売に統合後、読売系樺太新聞となる)。代表的な日刊紙は、樺太日日新聞、樺太時事新聞、樺太毎日新聞、真岡毎日新聞、恵須取毎日新聞である[要出典]

ラジオ放送

編集

1936年(昭和11年)、豊原での試験放送が人気を得て、1941年(昭和16年)、日本放送協会(NHK)は豊原放送局を開設。

銭湯

編集

島民の証言によると、豊原には数軒以上の銭湯があった[要出典]

樺太出身の有名人

編集

交通

編集

稚内桟橋駅から大泊港駅まで、稚泊連絡船で約8時間。

遺骨

編集

熊笹峠には、樺太の戦いにおけるソ連軍の南進を阻止し、同軍に北海道侵攻を断念させた日本の将兵の遺骨が今も眠っている[要出典]

摂政宮裕仁親王の行啓

編集

1925年(大正14年)8月、皇太子裕仁親王(当時は摂政、後の昭和天皇)が、樺太に行啓した[15]

御召艦戦艦長門であり、高松宮宣仁親王及び久邇宮家の朝融王(当時、皇太子妃良子女王の実兄で皇太子の義兄)も同乗した。

樺太犬

編集

樺太犬は日本固有種であり、きわめて飼い主に忠実である。南極物語に登場するタロとジロがそうである。

カラフトマス(樺太鱒)

編集

カラフトマスは、缶詰の原料として利用されている。

マリモ

編集

樺太の富内村には湖沼が多数存在し、マリモが多く生息し北海道のものとは種類が異なるため、樺太天然記念物として指定されている。

フレップ

編集

フレップ(コケモモ)と呼ばれる直径約1cm程度の木の実があり、ジャムなどにもなる。フレップとは、アイヌ語で、「赤い物」という意味である。

競馬

編集

日本時代の南樺太では6月から9月の間、競馬が盛んにおこなわれていた。1931年(昭和6年)には大小20か所の競馬場があり、その中で8か所が1932年(昭和7年)に樺太競馬規則による公認競馬場に認可された。

北樺太(北サハリン)

編集

北緯50度線以北を指す北樺太はニヴフの居住地で、東岸のロモウ川流域にはウィルタも分布する。樺太・千島交換条約以来のロシア領であり(条約以前は領有未確定で日露混合居住地)、ロシア帝国時代は沿海州に属した。ソビエト連邦成立当初はシベリア出兵時発生した尼港事件を受け、1920年7月から1925年5月15日の約5年間日本のサガレン州派遣軍による保障占領下にあった。1925年(大正14年)に日ソ国交樹立で日本軍が撤退するとハバロフスク地方に編入され、その後はサハリン州に属し、ロシア連邦となった現在も引き続きサハリン州に属している。主な都市はオハアレクサンドロフスク・サハリンスキー(日本名:オッチシ・落石、アイヌ語由来。ニヴフ名:イドイー)である。オハ油田サハリンプロジェクトサハリン1サハリン2)が代表的な石油産業である。

自然

編集

冷温帯気候に属する。北端のオハでは植物の生長期間が97日と極端に短い。全島面積の75%は森林であり、かつては北はエゾマツ、南にはトドマツ中心の原生林が広っていた。南樺太を日本が領有した際には、パルプの原料として大規模伐採を行ったほか、病虫害(カラフトマツカレハ)の発生、山火事により森林資源は減少。ソ連が実効支配した後もパルプ工場は稼働し、森林の伐採は続いたことから、森林の減少は続いたとみられる[16]

歴史

編集

初期の歴史

編集

中国、朝鮮の古書(山海経海東諸国記)には、いずれも「日本の北(又は領域)は黒龍江口に起こる。」と記載。

氷河時代には、樺太島は大陸とつながっていた。新石器時代から樺太島には人々が住んでいた。3世紀から13世紀にかけて、エホツク海岸一帯にオホーツク文化が存在し、現在の北海道、樺太島、千島列島南部に分布していた。この文明は、コリャーク人やニフフ人と関連があり、北海道の続縄文文化擦文文化とは異なる。この時期には、アイヌ人が樺太島の南部で、オロッコ人が中部で、ニヴフ人が北部で生活していた。中国の古代文献によれば、ホジェン族オロチョン族を代表とするツングース系民族がこの島に住んでおり、主に狩猟と漁労で生計を立てていたとされている[17]

唐の時代には、中国人はカムチャツカ半島と千島列島を発見し、カムチャツカ半島と千島列島を航行していた。[要出典]唐の玄宗の開元十三年(西暦725年)、唐朝はハバロフスク(伯力)に黒水府を設置し、黒水軍を配置し、黒水靺鞨の地域に効果的な行政支配を行い、現在のカムチャツカ半島と千島列島を探検した。[要出典]新唐書・北狄伝』には、「黑水西北又有思慕部、益北行十日得郡利部、東北行十日得窟說部、亦號屈設、稍東南行十日得莫曳皆部」と記されている。

唐の時代において樺太島は靺鞨の窟説部に属し、「窟説」や「屈説」といった言葉が同島の中国語名である「庫頁」の語源となった。[要出典] 当時に靺鞨の勢力が強力であったため、窟説は直接唐に朝貢するのではなく、靺鞨に属していた。また、流鬼国は唐に朝貢し、その王子の可也余志も唐朝の都である長安に訪れ、唐朝の冊封を受け、可也余志には唐朝から騎都尉の官職が授与された。流鬼国はおそらくカムチャツカ半島のエホツク文化の一部族であったと考えられている。[要出典]史料によれば、流鬼国の使者は「三訳而来朝貢」し、まず窟説部が流鬼国の言葉を窟説部の言葉に訳し、次に黒水靺鞨が自らの言葉に翻訳し、最後に中国語に訳されたとされている。

また、飛鳥時代斉明天皇のころ行われた蝦夷征討・粛慎討伐の際、阿倍比羅夫が交戦した幣賄弁島は樺太との説[18] もある。樺太は南北に長いため、アイヌの居住地である南樺太と、ニヴフの居住地である北樺太で分けて記述する。

 
ロシアのウラジオストクにおけるアルセニエフ博物館に所蔵されている永寧寺碑と重建永寧寺碑

15世紀初、は北伐し黒龍江の下流地域に進出したため、女真族の各部族が明に服属し始めた。1410年、同島の東に位置する駑烈河流域のオロッコ人の族長が率先して明に朝貢し、その地に兀烈河衛を設置した。1411年に明は外満洲特林奴爾干都指揮使司を設け、外満洲の女真諸部族をなだめるためのものだった。1412年、北部近海に住むニヴフ人の族長も朝貢し、その地に囊哈児衛を設置した。1428年に中部の波羅奈河流域のオロッコ人の族長も朝貢し、その地に波羅河衛を設けた。これら三つの衛はすべて奴爾干都指揮使司に属していた。明は黒龍江下流地域や樺太島などを効果的に管理するため、太監の亦失哈を派遣した。彼が奴爾干地域を巡回し、永寧寺を建立しながら、この地域の事務を記録している永寧寺碑も建った。亦失哈は1413年には樺太島を再び視察した。1430年、明宣宗は都指揮の康旺、王肇舟、佟答敕哈らを奴爾干都指揮使司に派遣し軍民を慰撫した[19]。奴爾干都指揮使司は宣徳9年(1434年)に正式に廃止された。その後、三つの衛は明に朝貢しなくなった。

清朝の統治

編集
 
樺太が清帝国の一部であることを示す1821年のフランスの地図

1616年に、魏源の『聖武記』によると「太祖遣兵四百收瀕海散各部、其島居負險者刳小舟二百往取、庫頁內附、歲貢貂皮、設姓長、鄉長子弟以統之」との記述がある。清朝が建国した後、樺太島(中国語名は庫頁島)は最初に寧古塔副都統の管理下に置かれ、1715年以降、三姓副都統の統轄となった。島の住民は毎年、黑龍江の下流の普祿郷まで赴き、清朝に貂皮などを献上しなければならなかった[20]

1689年に清朝とロシア帝国は『ネルチンスク条約』を締結し、スタノヴォイ山脈以南を中国の領土と規定したが、当時のロシア人は樺太島の存在を知らなかった。1709年に康熙帝は三人のイエズス会の修道士を全国地図を測量するために派遣し、彼らは一つの大きな島が存在することを知った。翌年、満洲人で構成された第二の測量隊が間宮海峡を横断して樺太島に到達した。满洲文の地図では、樺太島は正式に「ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
ᡠᠯᠠ
ᠠᠩᡤᠠ
ᡥᠠᡩᠠ
」(sahaliyan ula angga hada)と名付けられ、「黒江の口先」という意味である。雍正十年(1732年)、清朝は三姓副都統衙門を設立し、「海島に居住する庫頁フェヤカ人が貂皮を献上する場合、三姓副都統衙門の兵士が派遣され、約束の地で貂皮を収集する。約束の場所に来ない場合は、兵士に島に来るように命じ、貂皮を収集する」(居住海島之庫頁費雅喀人貢貂、則由三姓副都統衙門派出官兵、前往約定之奇集噶珊收集貢貂並頒賞烏林。如不前來約定之地、則令官兵尋入海島、喚起前來、徵收貂皮並頒賞烏林[21])と規定され、同年には「海島に住む特門赫圖舎などの庫頁フェヤカ人146戸を招撫し、貂皮を進上するように命じた」(招撫居住於海島上特門赫圖舍等處庫頁費雅喀人146戶、令其貢貂[22])。さらに、清朝は「薩爾罕錐」と呼ばれる旗人の娘が地元の部族と結婚することで連絡を強化するようになった。結婚の条件は高く、皇帝の直接の承認が必要であった。男性は贈り物を用意しなければならず、通常は貂皮304枚とさまざまな色のキツネの毛皮が必要であった。清朝も豊富な持参金を用意し、主に衣類であったが、「牛二頭,犁、鏵、犁碗各一對」といった農業具も持参金に含まれていた[23]

1738年から1739年にかけて、日本航路を探検したロシアの中尉シュパンベルクはアイヌ族から樺太島の存在を知った。1742年にロシア人探検家シェリティンクは樺太島のほぼ全体の東海岸を探検し、ロシアは遠東地域で樺太島の重要性に気づき始めた。1783年から1787年にかけて、フランスの航海家ラ・ペルーズは黒龍江口と樺太島を調査し、その中で宗谷海峡を発見した[20]。1785年、江戸幕府は山口鉄五郎ら5人とその側近らを派遣し、千島列島と樺太島を二方向から測量し、「樺太島北部は清国に属する」と結論付けた[20]

南樺太の歴史

編集

古代以前は南部に進出した続縄文人や、日本書紀上の粛慎(みしわせ)に比定されるオホーツク文化人などが存在し、鎌倉時代以降はアイヌ民族や和人が進出、北東部(幌内川の流域)には、アイヌ民族が「オロッコ」と呼んだウィルタ民族や、「ニクブン」と呼んだ東岸のニヴフ民族(ニヴヒとも。)などの北方少数民族もいた。以下は、南樺太中心の出来事。

古代から中世

編集

近世

編集
以下に幕府が把握した北蝦夷地(樺太)のアイヌ人の人口と、明治政府が把握した樺太人員の本籍人口をまとめる。
北蝦夷地(樺太)人員の変遷
西暦(元号) 人口
1804年(文化元年) 2,100
1822年(文政5年) 2,571
1839年(天保10年) 2,606
1854年(安政元年) 2,669
1873年(明治6年)1月1日 2,358
1875年(明治8年)1月1日 2,374
  • 1808年(文化5年) - 江戸幕府が、最上徳内松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで派遣。
  • 1809年(文化6年)
    • 同年、西蝦夷地から分立し名称が北蝦夷地となる。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の債務問題解決に貢献[38] した。また、山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。以降、山丹交易は幕府直営となり、山丹人が江戸幕府に対し朝貢するようになる。
    • 栖原角兵衛(信義)伊達林右衛門と共同で北蝦夷地(樺太)場所を請け負う[39]。幕命により樺太・久春古丹(大泊郡大泊町楠渓)と宗谷の間に500 石以上の帆船2艘を就航させ、松前と陸奥三厩の間にも定期航路を開設。南樺太で漁場48箇所を経営[40] し、島内に7ヶ所の通行屋(即ち旅宿所)を設け交通の便を計る。
  • 1821年文政4年) - 幕府、全蝦夷地を松前藩に返還する。
  • 1846年弘化3年) - 松浦武四郎が草履取・運平と名乗り、はじめて渡樺。北蝦夷地勤務を下命された藩医・西川春庵に随行(『鈴木重尚 松浦武四郎 唐太日記』)。

幕末から明治初期

編集
  • 1853年嘉永6年)
    • 同年秋、ネヴェリスコイ海軍大佐は久春古丹にムラヴィヨフ哨所()を築き、国旗を掲揚し一方的に樺太全島の領有を宣言。哨所を築いた場所に日本人の倉庫があったのでこの建物を接収した。
    • ロシア使節プチャーチン、国境交渉と通商を求め長崎に来航。日本全権筒井肥前守川路聖謨と交渉したが決裂。北緯50度線分割案も検討されたが、日本の行政(オムシャ宗門人別改帳も参照)が及ぶ地域(西岸は北緯50°より少し北のホロコタン(幌渓、露名:ピレオ。樺太西岸におけるアイヌ居住地北限。)以南、東岸は北緯48.5°のフヌプ(元泊郡元泊村班伸)以南)は日本領、それより北もロシアの支配が及ばない無主地として国境交渉。当時、南樺太の住民は大部分が南部の日本人(アイヌ及び和人)、北東部(幌内川流域)のウィルタやニヴフのみ。[41]
  • 1854年(嘉永7年)
    • 千島列島、全樺太島やカムチャッカ半島までも明記した「改正蝦夷全図」なる(加陽・豊島 毅作)
    • 5月18日 - クリミア戦争の影響を受け、ロシア船4隻が来航しわずか8か月ほどで駐留のロシア兵を撤収してクシュンコタン(久春古丹)を去った。
  • 1854年安政元年)
    • 6月12日、目付堀利照・勘定吟味役村垣範正らが北蝦夷地クシュンコタンに渡海、西は来知志湖近くのライチシカまで、東はオハコタン(栄浜郡白縫村箱田)まで調査。このとき普請役間宮鉄次郎は東海岸タライカ(敷香郡敷香町多来加)まで、支配勘定・上川侍次郎西海岸の北緯50度のすぐ北のホロコタン(幌渓、露名ピリポ)まで、松前藩士今井八九郎はニヴフ居住地・北樺太ナッコ(ラッカ)まで調査。
    • 日露和親条約により、日露国境を樺太島上で定めず是までの仕来りによること(国境は未確定のまま棚上げ先送り)を決定した[42]
  • 安政年間(1854 年~1860年)から明治初期にかけて、安房勝山藩小浜藩黒羽藩烏山藩笠間藩加納藩の各藩もタライカ湾の静香川(敷香郡敷香町)近辺に警固の拠点を構えた。東岸でフヌプより北に居住するアイヌ(タライカ人)は60名で、多来加湾岸は東岸におけるアイヌ居住地北限であるが、特に多来加湖周辺ではニヴフやウィルタと混住していた。
  • 1855年(安政2年) - 樺太を含む蝦夷地は再び公議御料(幕府直轄領)となり、秋田藩が白主と久春古丹に陣屋を築き警固を行った。また、この年以降番人を足軽に取立て武装化し冬季も警固した。
  • 1856年(安政3年)
  • 1857年(安政4年)
    • 越後出身の蝦夷地御用方・松川弁之助が東岸・東冨藍(トンナイ)領のオチョポカ(富内郡富内村落帆)に漁場(ぎょば)を開拓する。
    • 越後国蒲原郡井栗村の大工職の平次郎の妻よつ、樺太で身内が亡くなり輪在領ワアレ(栄浜郡白縫村輪荒)まで一人で旅した[44]
    • 佐藤広右エ門、東海岸のマアヌイと西海岸の久春内に取締所と番屋(漁舎)、東海岸の東冨藍領オチョポッカや栄浜領の魯礼にも会所(運上屋)を建て漁場の経営に当った。
    • 7月 - ロタノスケ率いるロシア軍がナヨロ(泊居郡名寄村)に上陸しクシニンナイに移動、クスナイスキー哨所を建設したが日本の警護が固く8月1日撤退。
    • 安政3年4年(1856・57)頃、幕府の施設でクシュンコタンに大砲4基が設置された台場1カ所が存在。陸上交通について、西岸は「通行屋」5カ所、「小休所」3カ所、ナヤス(名好郡名好村)以北のみに「露宿」あり。亜庭湾岸は「通行屋」8カ所と、「小休所」3カ所。東岸は「通行屋」5カ所と、「小休所」5カ所。
  • 1858年(安政5年)
    • 幕府は大野藩土井利忠に北蝦夷地警固と開拓を命じた(大野藩準領ウショロ(鵜城)場所)。ウショロ場所には、名好郡やホロコタン(幌渓、露名:ピレオ)も含まれた。同年、クシュンナイ周辺が箱館奉行石狩役所の直捌場所となった(石狩御直場所)。
    • 10代目・山田文右衛門(清富)が差配人並に任じられ、栄浜領のシュシュウシナイ(栄浜郡栄浜村栄浜)など東海岸に数か所の漁場を開いた。
    • 米屋喜代作(慶応二年以降の佐野孫右衛門)等も東冨藍領イヌヌシナイ(栄浜郡栄浜村犬主)やマクンコタン(元泊郡帆寄村馬群潭)に漁場を開いた。
    • マーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)にマヌエ哨所を建設。少数のロシア兵が定住し、はじめて日露両国人の部分的な雑居状態が生じる。
  • 1859年(安政6年)7月26日 - ムラヴィヨフは、自ら軍艦7隻を率いて品川に来航。樺太全土は露領と威嚇、主張したが、虎ノ門天徳寺における江戸幕府とムラヴィヨフの会談の席上、幕府は外国事務掛遠藤胤統酒井忠毘を通してこれを完全に退けた。
  • 1860年万延元年)
    • 樺太南部の警固は仙台・会津・秋田・庄内の4藩となる。
    • 佐藤広右衛門、中知床岬北東海岸に漁場7カ所を開く(皆別領)。
  • 1862年文久2年)
    • 安房勝山藩、藩士渡辺隆之助を派遣、東岸のシスカ(敷香郡敷香町)に漁場を開設。
    • 勤番所、クシュンコタン、シラヌシ、西トンナイ(真岡郡真岡町)、ワーレ(栄浜郡白縫村輪荒)、クシュンナイの5ケ所となる。
  • 1863年(文久3年) - 樺太南部の警固は仙台・秋田・庄内の3藩となる。
  • 1865年慶応元年) - ロシア軍艦が久春内に来航し、大砲二門を揚陸し強引に哨所を築く。
  • 1866年(慶応2年)
  • 1867年(慶応3年)
    • 幕府使節団とロシア側で、1月2日から2月7日まで8回の交渉が行われるも正式合意に至らず、2月25日に樺太島仮規則調印。樺太全島を日露雑居地[46] とされた。以降、ロシアは軍隊を増派して、北緯48度以南や日本の本拠地である樺太南端・亜庭湾岸までの軍事的制圧に着手。
    • 5月 - 使節団が日本へ帰国。
    • 6月 - 栖原角兵衛(寧幹)は樺太漁業出稼を命ぜられる。同年12月樺太東海岸漁業出稼を命ぜられ、栖原家が経営した漁場は58か所に及んだ。
  • 1868年慶応4年)
    • 4月12日 - 箱館裁判所(間4月24日に箱館府と改称)の管轄となった。
    • 6月末 - 岡本監輔、箱館府の行政官としてクシュンコタン(大泊郡大泊町楠渓)に着任し公議所を置くとともに、島内8ヶ所に出張所を設置し官員を派遣。
    • 同年、神仏分離令が出される。
  • 1869年明治2年) - 開拓使直轄領となり、北蝦夷地を樺太と改称。この年からロシアは囚人を送込み始める。
  • 1870年(明治3年)2月13日 - 樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹に開設される。
  • 1871年(明治4年)8月7日 - 樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。
  • 1872年(明治5年)
  • 1873年(明治6年) - ロシア兵が破壊活動や消火活動妨害を行った函泊(大泊郡大泊町山下)出火事件を受け、羅卒を増員。
  • 1875年(明治8年)

全島のロシア領期

編集

南部の日本領期

編集
  • 1905年(明治38年)9月5日 - 日露戦争勝利後のポーツマス条約締結により、北緯50度以南の樺太島(南樺太)が日本に帰属。行政機関として樺太民政署が設置される。
  • 1906年(明治39年)12月 - 大泊(コルサコフ)-豊原(ウラジミロフカ)間に軍用軽敏鉄道を開業(翌年より一般営業)[47]
  • 1907年(明治40年)4月1日
    • 樺太庁官制(明治40年3月15日勅令第33号)により、樺太民政署を発展的解消して樺太庁発足。
    • 樺太ニ施行スヘキ法令ニ關スル法律(明治40年法律第25号)施行[48][49]。内地の法律が勅令により施行され、台湾・朝鮮と異なり、樺太(南樺太)では委任立法の制度は認められずなかった。そのため、特定の事項については勅令で特別の定めをすることができることとし、樺太の実情に適合しない不都合を緩和する方策が採られた[50]。また、司法ニ関スル法律ヲ樺太ニ施行スルノ件(明治40年勅令第94号)により、裁判所構成法、民法、商法が樺太に施行され内地と同一の制度になっていた。
    • 樺太鉱業令公布[47]
 
北緯50度の国境標識と、警備にあたる日本の国境警察隊員。1913年(大正2年)から1939年(昭和14年)まで南樺太に日本軍部隊は常駐せず、国境警察隊だけが警備を担当していた。
  • 1908年(明治41年)1月 ‐ 樺太庁鉄道事務所開設[47]
  • 1908年(明治41年)3月31日 - 内務省告示にて、地名を日本語式漢字表記に変更[51]
  • 1909年(明治42年)樺太庁令で、「部落総代規定」を制定。主要83部落(集落)に町村長に相当する総代を置き、行政事務をおこなうこととした。
  • 1911年(明治44年) - 三井合名会社が樺太国有林の伐採権を得る。三井は2年前より森林調査隊を組織して全島調査していた。
  • 1911年(明治44年)12月 - 大泊-栄浜間の普通鉄道開業[47]
  • 1912年(明治45年)2月 - 島内資源保護のため「樺太国有森林原野産物特別処分令」公布。原料の売り払いを受ける者は樺太に工場を有するか建設する者のみとする[47]
  • 1913年(大正2年) - 樺太守備隊廃止。以降、国境警察隊が国境警備を担当。
  • 1914年(大正3年)11月 - 三井が大泊に島内初のパルプ工場を開業[47]
  • 1915年(大正4年)5月 ‐ 大川平三郎樺太工業開業。
  • 1915年(大正4年)6月26日 - 勅令第101号樺太ノ郡町村編制ニ関スル件により、17郡4町58村が設置される。
  • 1916年(大正4年)4月 ‐ 小池国三が日本科学紙業の落合工場を開業。
  • 1918年(大正7年) - 共通法(大正7年法律第39号)(大正7年4月17日施行)1条2項で、樺太を内地に含むと規定[52] された。これは前述のように、すでに民法が樺太について、適用されていたため、内地扱いとしたものである。
  • 1920年(大正9年)
    • 5月1日、大正9年勅令第124号(樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件)[53] 公布。それまで樺太に、内地の法律を適用する際に、個別に規定していた地方的又は種族法的な性質を有する特例を統合して規定した。なおこの勅令は、大正15年12月25日勅令第357号による改正で題名が、樺太施行法律特例となった。
  • 1922年(大正11年)
    • 4月1日 - 「樺太ノ地方制度ニ関スル法律」(大正10年4月8日法律第47号)と、その細則「樺太町村制」(大正11年1月23日勅令第8号)が施行。
    • 「部落総代規定」廃止。
  • 1923年(大正12年)
 
樺太の残留ロシア人集落
1930年(昭和5年)頃
  • 1924年(大正13年) 8月1日 - 徴兵制度が樺太に施行(徴兵令ヲ樺太ニ施行スルノ件(大正13年5月19日勅令第125号))。
  • 1925年(大正14年) - 樺太行啓
  • 1928年(昭和3年)9月 ‐ 東西横断鉄道開通。
  • 1929年(昭和4年)
  • 1937年(昭和12年)7月1日 - 樺太市制により、豊原町が市制施行する。
  • 1938年(昭和13年)1月3日 - 女優岡田嘉子脚本家杉本良吉とともに樺太国境を越境し北樺太に亡命。スパイ容疑でソ連当局に逮捕され、杉本は銃殺された(大粛清)。
  • 1939年(昭和14年)
    • 特別な理由なく樺太国境に近づくこと等を禁じた国境取締法を制定。
    • 5月23日 - 上敷香に樺太混成旅団が新設された。

内地時代

編集
 
1930年代(内地編入前)の豊原市中心部(真岡通り)の風景。
  • 1942年(昭和17年)11月1日 - 拓務省の廃止と大東亜省の設置に伴い樺太庁が内務省へ移管される。
  • 1943年(昭和18年)
    • 4月1日 - 明治四十年法律第二十五号廃止法律(昭和18年3月27日法律第85号)により、樺太ニ施行スヘキ法令ニ関スル件が廃止

され、樺太は完全に内地へ編入された。ただし、廃止法律の附則で、それまでの勅令による特例はなお効力を有するとされたため、樺太施行法律特例(大正9年勅令第124号)は廃止されずそのまま有効とされた。北海道とともに北海地方[注釈 5] に含まれた。

日本統治時代の樺太(南樺太)の人口変遷

編集
日本統治時代の樺太(南樺太)の人口変遷
調査年月日 人口 出典
1908年(明治41年)12月31日 26,393 樺太庁統計書
1913年(大正2年)12月31日 44,356 樺太庁統計書
1918年(大正7年)12月31日 79,795 樺太庁統計書
1920年(大正9年)10月1日 105,899 国勢調査
1925年(大正14年)10月1日 203,754 国勢調査
1930年(昭和5年)10月1日 295,196 国勢調査
1935年(昭和10年)10月1日 331,943 国勢調査
1940年(昭和15年)10月1日 414,891 国勢調査
1944年(昭和19年)2月22日 391,825 人口調査
ただし、極寒の樺太では夏と冬では人口が違い、冬には避寒のため北海道や以南に戻る者が多く人口が減り、翌夏にはまた増える。例としては明治44年では夏の人口は57000人だが冬には36725人に減っている[56]

戦後の樺太

編集

北樺太の歴史

編集

古代以前は日本書紀上の粛慎(みしわせ)とされるオホーツク文化人などが存在し、鎌倉時代以降は、ニヴフ民族(ニヴヒとも。アイヌ民族は西岸を「スメレンクル」、東岸を「ニクブン」と呼んだ)、アイヌ民族が「オロッコ」と呼んだ東部(ロモウ川の流域)のウィルタ民族、などの北方少数民族もいた。以下は北樺太中心の出来事。

古代から中世

編集
  • 640年(舒明天皇12年) - 「流鬼国」(オホーツク文化人?)が入貢
  • 762年天平宝字6年)12月1日 - 陸奥国陸前国)の国府多賀城に修造された多賀城碑に「去靺鞨(まっかつ)国界三千(1,600km)」と記される。ちなみに、多賀城碑からの直線距離は、間宮海峡最狭部(黒龍水道)で約1,530km、それより北の黒龍江河口付近で約1,600kmである。
  • 1264年文永元年) - 冊封体制下にあった吉里迷(ギレミ、吉烈滅)が、「骨嵬(クイ)や亦里于(イリウ)が毎年のように侵入してくる」と訴えたため、蒙古帝国(1271年から)が3000人の軍勢を樺太に派兵し、南に住む住民の「骨嵬」を攻撃。このころ、蝦夷社会が不安定化し、安東五郎が討伐軍を率い津軽海峡を渡海したが討死したという記録(日蓮遺文『種種御振舞御書』)があり、対蒙古戦闘説もある。
  • 1284年弘安7年)- 1286年(弘安9年) - 元、聶古帯(ニクタイ)を征東招討司に任じ、大規模な骨嵬征伐が20年ぶりに実行される。1285年(弘安8年)は兵一万人、1286年には兵一万人と船1,000艘を派遣(『元史』)。派兵の規模の目安として、関連項目の元寇も参照されたい。
  • 1295年永仁3年) - 日持が南樺太から北上し、オッチシ(落石、ニヴフ名はイドイー)から、日蓮宗の布教活動のため大陸渡航したとされる。
  • 1297年(永仁5年)7月 - 王不廉古(ユプレンク)に率いられた骨嵬(樺太アイヌ)が間宮海峡の対岸・大陸の黒龍江を遡上して払里河というところで元と交戦(『元文類』)。この戦いについては諸説あり、榎森進は無理があると指摘する[58] 一方、海保嶺夫は、水軍をはじめ対抗可能な軍事力を擁する蝦夷沙汰職・蝦夷代官安藤氏が、蝦夷(樺太アイヌ)を動員して組織的に元と戦ったという説を唱えた[59]
  • 1308年徳治3年/延慶元年) - 吉里迷を仲介として、骨嵬が毛皮の貢納を条件提示し元朝への和議・帰順を申し入れ事実上の和睦が成立、交易するようになった。以降、40年以上に及んだ骨嵬と元朝の戦いは終了。このとき、安藤氏は停戦派と戦闘継続派が対立、のちの安藤氏の乱に繋がったとする説もある。
  • 1368年(南朝:正平23年、北朝:応安元年) - 元が中国大陸の支配権を失い北走、大陸・満洲方面を巡って新興のを交えての戦乱と混乱が続き、間宮海峡を挟んで対峙する樺太への干渉は霧消する。
  • 室町時代以降、安藤水軍は関東御免船として日本海北部を中心にかなり広範囲に活動。大陸との交易もおこなった。
  • 1411年(応永18年) - は進出した大陸の黒龍江(アムール川)下流域、外満洲ティル羈縻政策を司る奴児干都司設置。周辺諸民族と外交関係を結ぶ際、樺太北部3箇所の先住民首長にも名目的に羈縻衛所指揮官の称号を付与[60]。これを介し南樺太以南に住むタライカ人(アイヌ民族)とも交易する。
    • 1410年(応永17年) - 北樺太東岸ロモウ川流域の先住民(ウィルタ)首長が明に朝貢、兀列河(ウリエホー)衛の指揮官の称号を授与される。
    • 1412年(応永19年) - 北樺太西岸リャングルの先住民(ニヴフ)首長が明に朝貢、嚢哈児(ナンハル)衛の指揮官の称号を授与される。
    • 1428年(応永35年/正長元年)までに、樺太東岸中部幌内川流域の先住民(ウィルタ)首長が明に朝貢、波羅河(ポロホー)衛の指揮官の称号を授与される。
  • 1435年(永享7年) - 奴児干都司が廃止され、樺太北部3衛の先住民は明への朝貢交易から解放される。ただし、ロモウ川流域と幌内川流域は、15世紀後半まで大陸と交易をおこなった。

近世

編集
 
1810年に間宮林蔵が作成したサハリン(樺太)の地図

幕末から明治初期

編集
  • 1853年嘉永6年)
    • ロシアが、北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ、領有を宣言。同年秋、ネヴェリスコイ海軍大佐は一方的に樺太全島の領有を宣言。
    • ロシア使節プチャーチン、国境交渉と通商を求め長崎に来航。日本全権筒井肥前守川路聖謨と交渉したが決裂。北緯50度線分割案も検討されたが、日本の行政(オムシャ宗門人別改帳も参照)が及ぶ地域(西岸は北緯50°より少し北のホロコタン(幌渓、露名:ピレオ。樺太西岸におけるアイヌ居住地北限。)以南、東岸は北緯48.5°のフヌプ(元泊郡元泊村班伸)以南)は日本領、それより北もロシアの支配が及ばない無主地として国境交渉。当時、北樺太の住民はアイヌによって西岸はスメレンクル、東岸はニクブンと呼ばれたニヴフのほか、東岸の幌内川とロモウ川の流域に住むウィルタ、西岸最南部・ホロコタンに少数の日本人(アイヌ及び和人)のみ。間宮海峡対岸の外満洲でさえ清国領であり、ロシア領ではなかった[41]
  • 1854年安政元年)
    • 6月、支配勘定・上川侍次郎西海岸の北緯50度のすぐ北のホロコタン(幌渓、露名ピリポ)まで、松前藩士今井八九郎はニヴフ居住地・北樺太ナッコ(ラッカ)まで調査。
    • 日露和親条約により、日露国境を樺太島上で定めず是までの仕来りによること(国境は未確定のまま棚上げ先送り)を決定した[42]
  • 1854年(嘉永7年)
  • 1856年(安政3年)
    • 同年、海軍大尉N.M.チハチョーフがニヴフ居住地・北樺太西海岸の土衣にドウーエ哨所を建設。
  • 1858年(安政5年)
    • 当時、樺太に居住するロシア人はニヴフ居住地の北樺太西岸・オッチシ(落石、露名:アレクサンドロフ・サハリンスキー)に12名のみである。
  • 1865年慶応元年) - 岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる。
  • 1867年(慶応3年) - 幕府使節団とロシア側で、1月2日から2月7日まで8回の交渉が行われるも正式合意に至らず、2月25日に樺太島仮規則調印。樺太全島を日露雑居地[46] とされた。

ロシア領期

編集
 
1880年代の樺太へのロシアの流刑者。

帰属の歴史

編集
 
領土開発1875年から1945年:
1875年:樺太・千島交換条約
1905年:ポーツマス条約
1945年:第二次世界大戦の終わり
 
ロシアにおける樺太の位置
 
宗谷岬から樺太を望む。この写真ではぼんやりしているが、天候によってははっきり見えることもある[68]

幕末以来、日本とロシアの間で領有者が度々変遷した。

ソビエト連邦崩壊後、それを継承したロシア連邦がいまなお南樺太全体を実効支配している。

領土問題

編集

樺太(50度線以南)について、日本では国際法上帰属が未確定であるとするゆえに、北方領土問題とともに取り上げられることも多い。

現在までの経緯

編集

1945年(昭和20年)8月9日、ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦。これは1945年(昭和20年)2月、米英首脳がソ連に対してナチス・ドイツ降伏3カ月後に対日参戦することを条件に、南樺太と千島列島を引き渡すという密約を与えたヤルタ協定に基づいて行われたものである。8月11日より南樺太に侵攻を開始した。8月14日ポツダム宣言受諾後も、8月22日知取町で日ソ停戦協定が成立するまでソ連は民間人に対しても攻撃を続けた。

1951年(昭和26年)9月8日に、日本政府は、北緯30度線以南の南西諸島小笠原諸島、南樺太などの権利権原及び請求権の放棄が明記されたサンフランシスコ講和条約を締結したが、引渡先は未記載である。そして、ソビエト連邦がサンフランシスコ講和条約への調印・批准を拒否し同条約の当事国でない為、条約の内容がソ連(後継のロシア連邦)に適用される訳ではなく、南樺太の領有権の帰属先は国際法上未定のままとなっている[69]

サンフランシスコ講和条約締結国の見解

編集

現在、日本は積極的な領土返還要求を行っていないものの、最終的な帰属は日ロ間の平和条約の締結など、将来の国際的解決手段に委ねられると主張している[70]。さらに、日本政府は「仮に将来、何らかの国際的解決手段により南樺太の帰属が決定される場合には、日本としてその内容に応じて必要な措置」を取るとしている[70]。そして、日本政府はヤルタ会談について、日本は参加していないためこれに拘束されず、ヤルタの秘密協定は主権侵害であり国際法違反だとしている。

また、冷戦下の1952年(昭和27年)3月20日に、サンフランシスコ講和(平和)条約の当事国であるアメリカ合衆国上院は、同年4月28日に発効するサンフランシスコ平和条約では、ソビエト連邦への南樺太の領土、権利、権益の引き渡しを決めたものではない、とする決議を行っている。

一方で、日本政府は、ロシアによる実効支配についてロシア以外のいかなる国の政府も領有権の主張を行っておらず、異議を唱える立場にはないとしている[70]。この点が、いわゆる北方領土問題北方地域)とは異なっている。

平和条約未締結国・ロシアの主張

編集

ロシア側の立場は、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しなかったが国際条約で領有権放棄が明記されており、さらに、ヤルタ会談を根拠として、南樺太と千島列島のソ連による占領とロシアの領有は戦争の結果であり、また既にソ連国内法により編入されている[71][72] というものである。

中国(中華民国)の主張

編集

蔣介石にまつわる記録文書をまとめた『蔣中正先生年譜長編』には、かつて中国で「国恥」教育が実施されたと記録されており[73]1933年上海の世界輿地学社から発行され、中国で使用されていた小学校用の地理教科書『小学適用 本國新地圖』には、過去100年間に外国に奪われた中国の国土範囲を表した地図「中華国恥図」が掲載されており、中国を中心とした広大な地域を囲んだ黒の破線(「現在」の国境線)と、その上に引かれた太い赤線(「古い時代」の国境線)があり、赤線で囲んだ広大な範囲がすべて中国の領土であり、赤線と黒の破線に挟まれた領土の差を失ったことが、中国の「国の恥」だと訴えている。赤線は日本海の真ん中を通り、種子島屋久島をかすめたところで東側に急カーブし、琉球諸島を範囲内に収めながら南下し、台湾東沙諸島も囲って進み、フィリピンパラワン島を抜けたところで、再び急にスールー諸島を取り囲むために東へ寄り、ここからボルネオ島北部のマレーシアブルネイマレーシアシンガポールのあるマレー半島すべて、そしてインドアンダマン諸島まで囲いこんでから北上し、ミャンマーの西側を通り、ネパールとインド国境を進み、タジキスタンアフガニスタンウズベキスタンカザフスタンまで含んだ赤線は、中露国境を通ってモンゴルへ向かう。そしてモンゴルもすべて領内としたうえ、樺太すべて、最後に朝鮮半島をまるごと収めて、環を閉じている[74]。その領土がいつ、どのように失われたかという説明書きには、樺太は「俄佔 一七九〇年後喪失 日佔(ロシアが占領、1790年以後喪失、日本が占領)」とある[75]

一部人物の見解

編集

ソ連はサンフランシスコ平和条約に調印しなかったため、南樺太、千島列島全域は日本の領土のままであるというものである。北樺太の領有権も主張している人物もいる[誰?]

樺太等在留邦人

編集

樺太等に住んでいたが敗戦の混乱により帰国できなかった日本人。2018年現在では家族を含め275人が永住帰国を果たし、86人が樺太に、23人が旧ソ連圏に暮らしている[76]

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 小樽航路のみ休止中[12]
  2. ^ 樺太の石炭産業の起源については、「十九世紀中旬、ロマノフ朝東シベリア総督が、樺太に送り込んだ囚人の一部を炭坑夫として労働させ、ごく小規模な炭鉱経営を開始したと考えられている(出典:太陽出版『絵で見る樺太の歴史』78ページ)
  3. ^ ウィマムとは藩主や役人にお目見えすること。
  4. ^ 同時期の欧州オランダには、榎本武揚澤太郎左衛門赤松則良西周ら幕府の留学生団がいたが、竣功した開陽丸と共に同年10月25日にオランダを発っている。
  5. ^ 樺太も含めた場合、北海地方という。
  6. ^ 但し、日本外務省は、樺太は日露和親条約で日露混住の地と決められたと説明している(出典:外務省国内広報課発行『われらの北方領土2006年版』6ページ)
  7. ^ 但し、『北方領土問題資料集』南方同胞援護会発行(1966年6月)4ページでは「カラフト島は是迄の通り両国の所領」とされたと記載。

出典

編集
  1. ^ 「樺太―カラフト」を知る ニッポン 領土問題の原点 侵奪―回復ー放棄―不法占拠―そして? (別冊正論25)12頁
  2. ^ 葛西猛千代ほか共著『樺太の地名』(樺太郷土会、1930)p.9-p.16に諸説が紹介されている。
  3. ^ インターネットでは、「カムイ・カㇻ・プㇳ・ヤ・モシㇼ (kamuy kar put ya mosir/神が河口に造った島)というのが語源であるとの説が流布しているが、出典がはっきりしておらず、アイヌ語の解釈として問題がある。
  4. ^ 中川裕; 北原次郎太; 永山ゆかり; バヤリタ; ブリガ; 児倉徳和; 久保智之; 西田文信 ほか『ニューエクスプレス・スペシャル 日本語の隣人たちⅡ』白水社、2012年。ISBN 9784560086162 
  5. ^ 同上、及び 田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』草風館、1996年。ISBN 9784883230938  、ほか多数
  6. ^ 葛西猛千代ほか共著『樺太の地名』(樺太郷土会、1930)p.12
  7. ^ 海保嶺夫『北方史史料集成』北海道出版企画センター〈第4巻〉、1998年。ISBN 9784832898028 
  8. ^ 國東利行『廻国僧正光空念師宝永元年松前・蝦夷地納経記』北海道出版企画センター、2010年。ISBN 9784832810099 
  9. ^ 岩崎奈緒子「史料紹介 天理大学付属天理図書館所蔵 加模西葛杜加国風説考」『北海道・東北史研究』第3号、北海道・東北史研究会、2006年12月、NAID 40015350264 
  10. ^ 「ニッポン 領土問題の原点!!「樺太-カラフト」を知るの15頁の上段4行目。侵奪―回復―放棄―不法占拠―そして?【発行所:産経新聞社 発売所:日本工業新聞社】
  11. ^ 古い時代、西洋で、この島の名前をSaghalienと書いたことがあり、それをカタカナにしたもの。古い時代の出版物ではこの表記が多くみられる。チェーホフのこの島に関するるルポルタージュの和訳も最初は『サガレン島』という邦題だった。
  12. ^ a b c 建設産業部サハリン課. “サハリンへの旅”. 稚内市. 2019年10月21日閲覧。[リンク切れ]
  13. ^ 『樺太の炭坑』(Website "樺太大百科")http://kam-r.sub.jp/ainu/karafutohyakka.html
  14. ^ 上野金太郎編『北洋材十年史』1970年 全国北洋材協同組合連合会 p.34 記録編
  15. ^ 『官報』第3877号「宮廷録事」、大正14年7月25日(NDLJP:2956025/2
  16. ^ 笠原六郎 沼田善夫「からふとのりんぎょう」『新版 林業百科事典』第2版第5刷 p103-104 日本林業技術協会 1984年(昭和59年)発行
  17. ^ 愛努文化的解說”. 2016年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月2日閲覧。
  18. ^ 西鶴定嘉 「樺太史の栞」
  19. ^ 高福順 (2002年3月). “庫頁島的地理發現與日俄對庫頁島的爭奪”. 長春師範學院學報 21 (1): 22-25. 
  20. ^ a b c 高福順; 李明娟 (2008). “日俄對庫頁島的爭奪”. 東北史地 (1): 45-49. 
  21. ^ 三姓副都統衙門滿文檔案譯編. p. 461 
  22. ^ 三姓副都統衙門滿文檔案譯編. p. 460 
  23. ^ 三姓副都統衙門滿文檔案譯編. p. 402 
  24. ^ 蓑島栄紀「9~11・12世紀における北方世界の交流」『専修大学社会知性開発研究センター古代東ユーラシア研究センター年報』第5号、専修大学社会知性開発研究センター、2019年3月、121-152頁、doi:10.34360/00008309NAID 120006785689 
  25. ^ 函館市史 通説編1 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 第1章 安東氏及び蠣崎氏 第2節 安東氏の支配
  26. ^ 十三湊から解き明かす 北の中世史 - JR東日本
  27. ^ 海保嶺夫 エゾの歴史 117,149-152頁 ISBN 978-4-0615-9750-1
  28. ^ 木村裕俊 「道南十二館の謎」95-98,137-138頁 ISBN 978-4-8328-1701-2
  29. ^ 函館市史 通説編1 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 第1章 安東氏及び蠣崎氏 第3節 中世期の商品流通
  30. ^ 五所川原市の地域経済循環分析 安東氏の活動範囲は北海道や樺太のほか大陸にも及んでいたという。
  31. ^ 十三湊遺跡”. 五所川原観光情報局(公式ウェブサイト). 五所川原観光協会. 2018年6月10日閲覧。
  32. ^ 木村裕俊 「道南十二館の謎」111頁 ISBN 978-4-8328-1701-2
  33. ^ 榎森進 『アイヌ民族の歴史』 草風館、2015年、46頁。
  34. ^ 木立 随学 日持上人開教の事績-津軽十三湊をめぐって - 日蓮宗 現代宗教研究所 『十三往来』の原文掲載あり
  35. ^ 『熊石町史』熊石町発行(1987年9月)
  36. ^ 池添博彦、「北蝦夷地紀行の食文化考 北夷分界余話について 帯広大谷短期大学紀要 1993 年 30 巻 p. A51-A60, doi:10.20682/oojc.30.0_A51
  37. ^ 前田孝和「旧樺太時代の神社について : 併せて北方領土の神社について」『年報 非文字資料研究』第11号、神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター、2015年3月、1-36頁、CRID 1050282677546388480hdl:10487/14162ISSN 1883-9169NAID 120006620491 
    前田孝和「「樺太の神社の終戦顛末」」『非文字資料研究』第27号、神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター、2012年1月、10-15頁、CRID 1050001202568288384hdl:10487/10946ISSN 1348-8139NAID 120006628435 
  38. ^ 樺太詰松田伝十郎の山丹交易改革 稚内市
  39. ^ 田島佳也、「近世期~明治初期、北海道・樺太・千島の海で操業した紀州漁民・商人」『知多半島の歴史と現在(16) 』 2015年 19巻, ISSN 0915-4833,日本福祉大学知多半島総合研究所, NAID 120005724562
  40. ^ 秋田俊一 樺太南部を中心とした栖原家家譜「北海道の歴史と文化」(北海道史研究協議会編)
  41. ^ a b 上村英明「『北海道』・『沖縄』の植民地化とその国際法の論理:アジアにおける「先住民族」形成の一事例」(PDF)『PRIME』第12号、明治学院大学国際平和研究所、2000年3月、55-82頁、CRID 1520290883545315712ISSN 1340-4245 
  42. ^ a b 榎森進「「日露和親条約」がカラフト島を両国の 雑居地としたとする説は正しいか?」『東北文化研究所紀要』第45号、東北学院大学東北文化研究所、2013年12月、1-22頁、CRID 1050282677919730816ISSN 0385-4116 
  43. ^ 『新北海道史』第二巻通説一 p.764
  44. ^ 敦賀屋文書(鳥井家文書)
  45. ^ のち最後の箱館奉行(並)。
  46. ^ a b 秋月俊幸「明治初年の樺太 : 日露雑居をめぐる諸問題」『スラヴ研究』第40巻、北海道大学スラブ研究センター、1993年、1-21頁、CRID 1050001202945425792hdl:2115/5210ISSN 05626579 
  47. ^ a b c d e f 「棄景」の語る樺太産業と鉄道の関係誌、三木理史『別冊正論25 NIKOO MOOK』産経新聞社、2015、p68-79
  48. ^ 樺太ニ施行スヘキ法令ニ關スル法律 - Wikisource
  49. ^ 中野文庫 - 樺太ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律
  50. ^ 日本-旧外地法令の調べ方
  51. ^ 明治41年内務省告示第29号(『官報』第7425号、明治41年3月31日)(NDLJP:2950772/23
  52. ^ 大正7年法律第39号(『官報』第1709号、大正7年4月17日)(NDLJP:2953822/3
  53. ^ 勅令第124号(『官報』第2323号、大正9年5月3日)(NDLJP:2954436
  54. ^ 知られざる本土決戦 南樺太終戦史 藤村建雄 ISBN 978-4769816362
  55. ^ 中山隆志『一九四五年夏 最後の日ソ戦』 中央公論新社〈中公文庫〉、2001年、179頁。改版2022年
  56. ^ 樺太庁施政三十年史 上巻、88-89頁。
  57. ^ 「樺太引揚げ氏名わかる きょう午後横浜港に」『日本経済新聞』昭和40年9月15日.15面
  58. ^ 榎森進 『アイヌ民族の歴史』 草風館、2015年、64頁
  59. ^ エゾの歴史 海保嶺夫 ISBN 978-4061597501 初版96年(2006年 講談社学術文庫版 103-104頁)
  60. ^ 古代の日本 第九巻、東北・北海道、角川書店 ISBN 4045220097
  61. ^ 稚内史 第三章 松田伝十郎と間宮林蔵の樺太踏査
  62. ^ 池添博彦、「北蝦夷地紀行の食文化考 北夷談について」『帯広大谷短期大学紀要』 1995年 32巻 p.33-48, doi:10.20682/oojc.32.0_33
  63. ^ 稚内史 第四章 間宮林蔵の第二回樺太踏査と西蝦夷地測量
  64. ^ 池添博彦、「北蝦夷地紀行の食文化考 北夷分界余話について」『帯広大谷短期大学紀要』 1993年 30巻 p.A51-A60, doi:10.20682/oojc.30.0_A51
  65. ^ 松浦美由紀, 池添博彦、「北蝦夷地紀行の食文化考 東韃地方紀行および北蝦夷餘誌について」『帯広大谷短期大学紀要』 1994年 31巻 p.1-12, doi:10.20682/oojc.31.0_1
  66. ^ 竹野学、「保障占領下北樺太における日本人の活動 (1920-1925)」『經濟學研究』 2013年 62巻 3号 p.31-48, 北海道大学大学院経済学研究科, NAID 120005228387
  67. ^ Vladimir Datsyshen,"The Russian-Japanese relations in Northern Sakhalin during the Japanese occupation (1920-1925)", Yearbook Japan, Institute of Oriental Studies of the Russian Academy of Sciences, 2014
  68. ^ 稚内観光協会 1月16日閲覧。
  69. ^ 北方領土問題に関するQ&A”. 外務省. 2020年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月31日閲覧。
  70. ^ a b c 北方領土問題に関するQ&A(関連質問)”. 外務省. 2020年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月31日閲覧。
  71. ^ 阿部照哉畑博行編『世界の憲法集 〔第二版〕』(有信堂、1998年8月発行)の「18 ロシア連邦」(宮地芳範が訳出及び解説を執筆)の「ロシア連邦憲法」第3章(連邦体制)第65条(ロシア連邦の主体)第1項によれば、サハリン州がロシア連邦を構成する主体となっている。
  72. ^ サハリン州憲章[リンク切れ](1996年施行)第3条第1項によれば、「サハリン州の領土には、サハリン島とそれに隣接する領土、小クリル列島を含む千島列島の領土、ならびにロシア連邦の国際的条約と連邦法によってその境界が定められる内水と領海が入る。」と規定されている。
  73. ^ 譚璐美 (2021年10月18日). “中国が考える本当の領土?「国恥地図」実物を入手”. 東洋経済オンライン. オリジナルの2021年10月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211019025517/https://toyokeizai.net/articles/-/462344?page=2 
  74. ^ 譚璐美 (2021年10月18日). “中国が考える本当の領土?「国恥地図」実物を入手”. 東洋経済オンライン. オリジナルの2021年10月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211019033035/https://toyokeizai.net/articles/-/462344?page=3 
  75. ^ 譚璐美 (2021年10月18日). “中国が考える本当の領土?「国恥地図」実物を入手”. 東洋経済オンライン. オリジナルの2021年10月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211018055711/https://toyokeizai.net/articles/-/462344?page=4 
  76. ^ 1 中国残留邦人の状況 (平成30年8月31日現在)”. 2018年9月23日閲覧。

参考文献

編集
  • 角田房子『悲しみの島サハリン-戦後責任の背景』新潮社。ISBN 4101308063 
  • ウィーゾコフ『サハリンの歴史-サハリンとクリル諸島の先史から現代まで』北海道撮影社。ISBN 4938446596 
  • アントン・チェーホフ 『サハリン島』 原卓也訳、中央公論新社 新版2009年。

関連項目

編集

地理

編集

その他

編集

外部リンク

編集
  NODES