武田元光
武田 元光(たけだ もとみつ)は、戦国時代の大名。武田元信の次男。若狭国守護。若狭武田氏6代当主。
紙本著色武田元光像(発心寺蔵) | |
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 明応3年(1494年) |
死没 | 天文20年7月10日(1551年8月11日) |
改名 | 彦次郎(幼名)[1]→元光→宗勝(法名) |
戒名 | 発心寺殿天源宗勝大居士 |
墓所 | 福井県小浜市発心寺 |
官位 | 治部少輔[1]、伊豆守[2]、大膳大夫[2]、贈従三位 |
幕府 | 室町幕府 若狭守護[2] |
主君 | 足利義晴 |
氏族 | 若狭武田氏 |
父母 | 父:武田元信[2] |
兄弟 | 潤甫周玉、元光、元度、信孝?、信堅?、輝信(五男?)[3]、山県秀政 |
妻 | 細川澄元娘[4] |
子 | 信豊[2]、信実[2]、内藤政信、山県盛信、信高(信重?)、久我晴通正室 |
生涯
編集明応3年(1494年) 、武田元信の次男として誕生[5]。幼名は彦次郎。元光の母は不詳だが、大永4年9月29日に没したことが『実隆公記』に記されている(なお、元信の正室は伊勢貞祐の娘であるが、同一人物かは不詳)。
永正16年(1519年)11月に父の元信が出家したため、家督を継承して若狭守護となる。永正18年(1521年)3月に足利義稙が管領・細川高国と対立し堺に出奔(後に阿波国に下向)すると、同年7月に細川高国は足利義晴を12代将軍として奉じため、元光は上洛した。同年末に父の没後に領国支配を固めるため若狭へ下向し、遠敷郡の最西端に堅固な後瀬山城を築き本拠とした。大永4年(1524年)には再度上洛している[6]。
ところが、大永6年(1526年)7月に細川高国が香西元盛を誅殺すると、これに怒った丹波国の波多野元清と柳本賢治が細川高国から離反、それに呼応して足利義晴の弟・足利義維を擁立する細川晴元も阿波で挙兵した。同年10月23日、細川高国は、丹波神尾山城に総大将細川尹賢を、八上城には瓦林修理亮、池田弾正等を差し向け、更に、足利義晴の名で元光に援軍を要請したため[7]、同年12月、元光は足利義晴を支援するため上洛した[8]。一方、丹波で細川尹賢を打ち破った波多野元清と柳本賢治は京都に向けて進軍、堺に上陸した細川晴元が派兵した三好勝長、三好政長がこれに加わった。翌大永7年(1527年)2月、両軍は桂川原で激突したが、武田元光軍が三好軍の襲撃を受けて崩れ、細川高国軍も壊走、元光は将軍足利義晴、細川高国と共に近江国に逃亡した[9](桂川原の戦い)。
その後も元光は、近江守護六角定頼らと共に高国派として晴元派の諸将と争ったが、武田軍の苦戦を知った若狭の海賊衆が一色氏や細川晴元と結んで蜂起したために本国に帰国する。享禄3年(1530年)元光は出家。宗勝と号する[2]。一方、細川高国は越前国守護朝倉孝景の支援を受け(川勝寺口の戦い)、次いで、播磨国守護代浦上村宗の支援を受け勢力を盛り返して京都を奪還、更に堺に進軍するが、享禄4年(1531年)6月に播磨国守護赤松政祐に裏切られて浦上村宗と共に討ち死した(大物崩れ)。宿敵を倒した細川晴元は残された足利義晴・武田元光とは和睦し、天文元年(1532年)に堺公方の足利義維を阿波に帰している(天文の錯乱)。
天文8年(1539年)元光は病を発し、まもなく家督を子・信豊に譲り山麓の郭に隠居した(屋敷は後に発心寺となる)。高国の没落後も将軍義晴からの信任は厚かったが、度重なる他国への出兵[10]は本国を疲弊させ、従弟[11]の武田信孝や被官である粟屋元隆や逸見氏が反乱を起こす[12]など、若狭の支配は安定しなかった。
天文20年(1551年)、死去[2]。没後に孫の義統が足利将軍家の娘婿になったためか、従三位を追贈されている[13]。
和歌にも優れた教養人であり、三条西実隆との交流の記録が残る[2]。また、娘の1人が久我晴通(足利義晴正室慶寿院の実弟)の正室となっている。
菩提寺
編集墓所は現在の福井県小浜市の発心寺。法名は発心寺殿天源宗勝大居士。
なお、発心寺の所蔵する、元光肖像3点(絹本著色武田元光像、紙本著色武田元光像(犬追物検見之像)、 木造武田元光像が、平成19年4月20日付けで、福井県指定有形文化財に指定された。このうち木造像は室町期末期の作、紙本著色像は没後23年の後に製作されたものであるが、絹本著色像は没年に製作されたものであり、若狭武田氏当主の、生前の姿を最もよく残している可能性が高い。
脚注
編集- ^ a b 今井尭ほか編 1984, p. 324.
- ^ a b c d e f g h i 高野賢彦 『安芸・若狭武田一族』p.122-125,164
- ^ 『甲斐信濃源氏綱要』
- ^ 『続群書類従』所収「細川系図」
- ^ 尊経閣文庫所蔵の「聞書条々」に元光の筆による永正17年(1520年)の年次と二十七歳を付記した自身の署名が入った奥書が入っている(木下聡、『若狭武田氏』2016年、P42)。
- ^ 『実隆公記』大永4年9月29日条
- ^ 『実隆公記』大永6年10月28日条
- ^ 『二水記』大永6年12月29日条
- ^ 笹木康平「戦国期畿内政治史と若狭武田氏の在京」(初出:『日本歴史』768号(2012年)/所収:木下聡 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第四巻 若狭武田氏』(戎光祥出版、2016年) ISBN 978-4-86403-192-9)
- ^ 福井県史(領国経営の行き詰まり)[1]
- ^ 木下聡、『若狭武田氏』2016年、P35
- ^ 福井県史(元隆の反乱)[2]
- ^ 木下聡、『若狭武田氏』2016年、P31
参考文献
編集- 今井尭ほか 編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。
- 高野賢彦 『安芸・若狭武田一族』 新人物往来社、2006年10月
- 木下聡編著「若狭武田氏の研究史とその系譜・動向」『若狭武田氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世西国武士の研究 ; 4〉、2016年9月。ISBN 9784864031929。 NCID BB22008040。OCLC 960432943。全国書誌番号:22791261。