水谷川忠麿
水谷川 忠麿(みやがわ ただまろ、1902年〈明治35年〉8月27日 - 1961年〈昭和36年〉5月20日[1][2])は、日本の男爵、貴族院議員。旧姓、近衛。
水谷川忠麿 みやがわ ただまろ | |
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生年月日 | 1902年8月27日 |
没年月日 | 1961年5月20日(58歳没) |
出身校 |
京都帝国大学文学部哲学科 (現京都大学) |
前職 | 大蔵大臣秘書官 |
現職 |
春日大社宮司 談山神社宮司 御門流家元 |
子女 | 養子・水谷川忠俊 |
親族 |
父・近衛篤麿(貴族院議長) 叔父・徳川家達(貴族院議長) 叔父・津軽英麿(貴族院議員) 兄・近衛文麿(内閣総理大臣) 兄・近衛秀麿(貴族院議員) 従兄・徳川家正(貴族院議長) |
在任期間 | 1938年1月22日 - 1947年5月2日 |
経歴
編集公爵近衛篤麿の四男として生まれた。兄に内閣総理大臣の近衛文麿、指揮者の近衛秀麿、ホルン奏者の近衛直麿がいる。
男爵水谷川忠起の養子となり家督を相続する。学習院中等科時代から有島生馬について洋画を習い、画家を志す[3]。学習院高等科在学中、1921年(大正10年)に養母堯子を亡くした[3]。1923年(大正12年)京都帝国大学文学部哲学科に入学した直後に養父忠起を亡くし、男爵位を相続[3]。京大在学中は京都帝大オーケストラに参加してオーボエを吹き、京都音楽協会の設立に参加[3]。家伝の華道「御門流」の再興を図り、二科展に入選する[4]。
のち、内務大臣秘書官や大蔵大臣秘書官を歴任[3]し、原田熊雄の後釜として西園寺公望の秘書になったこともあった[4]。1938年(昭和13年)1月22日、補欠選挙で貴族院男爵議員に選出され[5]、公正会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。戦後は春日大社・談山神社宮司、華道「御門流」家元を歴任した。茶の湯を嗜み、みずから茶盌や茶杓を製作した。
はじめ、近衛秀麿の次男の秀健を養子に迎えたが1939年(昭和14年)2月25日に秀健は水谷川家の籍を離れて男爵常磐井堯猷(近衛忠房の三男で秀麿・忠麿らの叔父)の家に預けられ、最終的に近衛家へ戻り[6]、指揮者となる。秀健の長男の近衛一はバスーン奏者、長女の文子はNHK勤務、次男の近衛大は弁護士となった。
秀健を離縁した後、1939年10月19日、秀麿の三男の近衛俊健を忠俊と改名して養子に迎えた[6](作曲家の水谷川忠俊)。忠俊の長女の水谷川陽子はヴァイオリニスト、次女の水谷川優子はチェリスト。
このほか、長兄文麿と新橋の芸者山本ヌイとの娘である斐子(あやこ、1931年 - )を養子に迎えていた時期もある(のち山本家に復籍)[7]。
系譜
編集水谷川家
編集水谷川家は、近衛忠熙の子である水谷川忠起を始祖とし、奈良華族として列せられた。
近衞家
編集近衞家は、藤原忠通の子である近衞基実を始祖とし、五摂家の一つであった。
皇室との関係
編集後陽成天皇の男系12世子孫である。後陽成天皇の第四皇子で近衛家を継いだ近衛信尋の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。
栄典
編集脚注
編集参考文献
編集- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』《下巻》吉川弘文館、1996年。
- 大野芳『近衛秀麿:日本のオーケストラをつくった男』講談社、2006年。
外部リンク
編集日本の爵位 | ||
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先代 水谷川忠起 |
男爵 水谷川家第2代 1923年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |