池田博文

江戸時代後期の岡山藩執政、大参事。建部池田家(森寺池田家)13代。池田博忠の嫡男。子に雄太郎(1865-1908、分家)

池田 博文(いけだ ひろふみ)は、江戸時代後期の岡山藩執政大参事。通称は隼人。号は聴涛斎。建部池田家(森寺池田家)13代当主。

 
池田博文
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政6年12月2日1824年1月2日
死没 明治8年(1875年9月27日
改名 忠彦、博文
別名 隼人(通称)、聴涛斎(号)
主君 池田慶政茂政
備前岡山藩
氏族 池田氏(長政流)
父母 池田博忠
雄太郎、博愛
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略歴

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文政6年(1824年)、岡山藩家老池田博忠の嫡男として岡山に誕生。初名は忠彦。安政3年(1856年)8月、父博忠の隠居により家督相続。

万延元年(1860年)家臣石坂堅壮に命じて岡山内山下に学問所を建設し、西達三郎を招いて家臣の教育に当らせた。文久2年(1862年)11月軍事惣引請となる。慶応2年(1866年)4月、長州藩第二奇兵隊を脱走した立石孫一郎らが、倉敷代官所と備中浅尾陣屋を襲撃する事件が発生(倉敷浅尾騒動)し追討に当たる。5月、追討の対応について、幕閣や藩内から批判が出たため責任者として隠居蟄居処分となり、家督を養子の博愛に譲る。明治2年(1872年)岡山藩執政となる。明治3年(1873年)岡山藩大参事となる。

明治8年(1875年)没。実子の池田雄太郎は慶応元年(1865年)に誕生。明治36年(1903年)に分家し、明治41年 (1908年)没している。

系譜

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参考文献

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  • 『岡山県教育史』
先代
池田博忠
建部池田家(森寺池田家)
13代
1856年 - 1866年
次代
池田博愛
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