波多野義常
平安時代末期の武士。相模波多野氏6代。右馬允。子に義行、経円、渋沢義和
波多野 義常(はたの よしつね)は、平安時代末期の武士。相模波多野氏6代。
時代 | 平安時代末期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 治承4年10月17日(1180年11月6日) |
官位 | 右馬允 |
氏族 | 相模波多野氏 |
父母 | 父:波多野義通、母:中河辺清兼娘 |
兄弟 | 義常、義景、忠綱、大槻高義 |
妻 | 大庭景宗娘(大庭景義妹) |
子 | 有常 |
略歴
編集相模波多野氏は波多野氏の一族で摂関家領相模国波多野荘[1]を所領とする。
波多野義通の子として誕生した。父・義通は保元の乱で源義朝に従い、義常の叔母が義朝の側室となって次男・朝長を産んだため、河内源氏との関係が深かったが、義通は保元3年(1158年)、義朝と不和となっている。義常は平治元年(1159年)の平治の乱後、京に出仕して右馬允の官職を得て、相模の有力者となる。
治承4年(1180年)7月、義朝の遺児源頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、参向を求められるが、義常はそれを拒否して暴言を吐いたという。同年10月、南関東を制圧した頼朝から誅伐の討手が差し向けられると、討手の下河辺行平らが到着する前に本拠地の松田郷で自害した。
脚注
編集出典
編集関連作品
編集- テレビドラマ