津軽(つがる)は、日本海軍敷設艦[4][20]。 この名を持つ日本海軍の艦船としては2隻目[20]。日本海軍の法令上は旧字体津輕を用いるが、本記事では津軽とする[21]

津軽
1941年10月17日、館山沖の「津軽」[1]
1941年10月17日、館山沖の「津軽」[1]
基本情報
建造所 横須賀海軍工廠[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 敷設艦[3][4]
建造費 予算 10,481,753円[注釈 1]
母港 横須賀[5]
艦歴
計画 昭和12年度(1937年)、③計画[6]
起工 1939年7月5日[2]
進水 1940年6月5日[2]
竣工 1941年10月22日[2]
最期 1944年6月29日沈没
北緯2度19分 東経127度57分 / 北緯2.317度 東経127.950度 / 2.317; 127.950[要出典]
除籍 1944年8月10日[7]
要目(1941年時計画)
基準排水量 4,000英トン[8]
公試排水量 計画 4,400.00トン[8][9]
竣工時 4,457.942トン[9]
満載排水量 計画 4,675.90トン[8][9]
竣工時 4,742.511トン[9]
全長 124.50m[8]
水線長 121.00m[8]
垂線間長 113.595m[8][注釈 2]
最大幅 16.20m[8]
水線幅 15.58m[8][注釈 3]
深さ 9.70m[8]
吃水 公試計画 4.92m、竣工時4.964m[8]
満載計画 5.14m[8]、竣工時5.192m[10]
ボイラー ロ号艦本式缶(空気余熱器付[11]) 4基[12]
主機 艦本式タービン(高低圧[11]) 2基[12]
推進 2軸 x 325rpm[12]
推進器直径2.700m[12]
出力 9,000shp[8]
速力 20ノット[8]
燃料 重油:計画 580トン[8]、竣工時 596.568トン[9]
航続距離 計画 5,000カイリ / 14ノット[8]
竣工時 6,382.6カイリ / 14ノット[8]
乗員 計画乗員 414名[13]
竣工時定員 412名[14]
搭載能力 補給物件計画[9]
重油 102トン
航空用軽質油 125トン
航空用潤滑油 13トン
60kg爆弾 8トン
竣工時[9]
重油 98.621トン
航空用軽質油 132.469トン
航空用潤滑油 12.939トン
60kg爆弾 8トン
兵装 40口径12.7cm連装高角砲A1型 2基4門[15]
九六式25mm連装機銃二型 2基4挺[15]
94式投射機1基、装填台1基[16]
水圧三型投下台2基、一型投下台4基[15]
九五式爆雷 18個[15]
九三式機雷 600個[15][注釈 4]
搭載艇 12m機雷揚収艇1隻、11m内火艇1隻、9m内火艇1隻、9mカッター2隻、6m通船1隻[17]
搭載機 零式一号水上偵察機一型 1機[18]
呉式二号五型射出機 1基[18]
ソナー 九三式水中聴音機1組(後日装備)[19]
九三式探信儀三型1組[19]
その他 中防一型改一防雷具2基[15]
一型水中処分具2基[15]
三型防掃具 60[15]
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青森県護国神社の軍艦津軽之碑

概要

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軍艦津軽」は太平洋戦争開戦直前(昭和16年10月下旬)に完成した日本海軍の機雷敷設艦[22]。最大速力20ノット程度ながら敷設巡洋艦補給艦(航空基地設営艦)としての性格を持つ多用途艦である[23][24]。 竣工と共に第四艦隊所属の第十九戦隊に編入され、中部太平洋諸島やソロモン諸島の攻略作戦に従事する[22][24]1942年(昭和17年)3月10日のラエ・サラモア空襲や5月上旬の珊瑚海海戦など、米軍機の空襲を受ける事もあった[22]。第十九戦隊の解隊にともない同年7月14日より第八艦隊に編入され、ソロモン諸島ニュージョージア諸島で行動した[22][24]1943年(昭和18年)8月5日、米潜水艦の雷撃で損傷し、横須賀で修理を行う[22]。12月1日附で第三南遣艦隊に編入され、シンガポール方面で輸送任務や機雷敷設任務に 従事した[24]1944年(昭和19年)6月上旬、渾作戦に参加[22]。6月21日、米潜水艦ダーターの雷撃を受けて損傷[22]。マニラに向けて退避中の6月29日、再びダーターの魚雷攻撃を受けて沈没した[22]

艦名

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津軽」の艦名は津軽海峡に依る[25]

初代「津軽」は、日露戦争旅順攻囲戦)で日本海軍に鹵獲された防護巡洋艦パルラーダで、日本海軍軍艦籍編入時に「津軽」と改名(二等巡洋艦)[25][26]。その後、旧式化により敷設艦に類別変更された[27]

2代目の本艦沈没後、3代目の「津軽」として海上自衛隊敷設艦つがる」が就役した。

艦型

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③計画艦のひとつで[6]、基本計画番号H10[8]。「沖島」(同H4[8])の改型に当たる[1]。「沖島」の準同型艦としている文献も多い[23][20][28][29]。九三式一型機雷600個を搭載した[20][29]。先行艦(沖島)との相違点は

などである。その他に兵装としては8cm高角砲に換えて25mm連装機銃を装備、艦橋トップの射撃指揮装置は高角砲用の九四式高射装置となった[29]。方位測定室は煙突後方に移動、後部マスト後方にあった探照燈は後部マスト上部に移されている[29][30]。艦影は「沖島」より全体的に低くなった[30]

機雷用の設備として煙突の前後両舷に機雷搭載用のハンギング・レールがあり、それぞれの直下に機雷積込口(計4カ所)があった[31]。艦内中甲板は艦橋下あたりから艦尾までのほとんどが機雷格納所となっていて、最大8条の機雷用軌道が敷設してあった[31]。上述の通り艦尾中甲板の敷設軌道は4条となっていて、その他に艦尾上甲板にも2条の軌道があった[31]。また缶室(ボイラー室)前方の下甲板、船艙甲板にそれぞれ機雷庫が設けられた[31]

「沖島」とのもう一つの違いとして、航空基地補給も考慮に入れており[20][24]、補給用重油102トン、航空用軽質油125トン(機関室後方に全溶接構造タンク三個)、航空用潤滑油や補給用の爆弾も搭載した[29][9]。そのため大戦中は輸送任務にも活躍した[24]

太平洋戦争中にカタパルトと搭載機を撤去、九六式二十五粍高角機銃十三ミリ連装機銃を増備した他、レーダーも装備したと言われる[29]。「あ号作戦後の兵装増備状況調査」によると1944年(昭和19年)8月10日調べで、25mm3連装機銃は6基増備して計7基、同単装機銃は4基を増備、その他21号電探を前部マストのトップに装備していた[32]

艦歴

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建造経緯

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第三次海軍軍備補充計画(③計画、昭和十二年度)において第1号艦(大和)、第2号艦(武蔵)、第3号艦(翔鶴)、第4号艦(瑞鶴)、第5号艦(敷設艦「甲」)、6号艦(敷設艦「乙」)などの建造が決まる[33][34]。敷設艦「甲」(第5号艦)は11,600トン型、敷設艦「乙」(第6号艦)は5,000トン型機雷敷設艦という規模だった[34]。このうち敷設艦「甲」は水上機母艦(特殊潜航艇甲標的母艦)に変更されて「日進」となり、敷設艦「乙」は「津軽」として竣工、同じ③計画で初鷹型敷設艦2隻(初鷹蒼鷹)も竣工した[34]

1939年(昭和14年)7月5日横須賀海軍工廠で起工[2][35]1940年(昭和15年)2月23日陽炎型駆逐艦2隻(萩風)や占守型海防艦2隻(国後八丈)等と共に命名される[21]6月5日、進水[2][35]

1941年(昭和16年)6月20日、日本海軍は「初鷹」艤装員長[36]および初代艦長[37]を務めた稲垣義龝大佐を津軽艤装員長に任命する[38]。また初鷹竣工時の水雷長高橋仁四郎中佐[37]、潜水母艦/空母剣埼(祥鳳)機関長の桜井俊三機関中佐も、稲垣と同日附で津軽艤装員に任命された[38]。 6月23日、横須賀海軍工廠に設置された津軽艤装員事務所は事務を開始する[39]

9月10日、稲垣大佐(津軽艤装員長)は制式に津軽艦長(初代)となる[40]。主な初代幹部は、機雷長高橋仁四郎少佐、航海長越智武雄大尉、機関長額久直機関少佐[40]10月22日、「津軽」は竣工[2][35]。翌日、津軽艤装員事務所は撤去された[41]横須賀鎮守府[35]

太平洋戦争緒戦

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1941年(昭和16年)10月22日の竣工と共に、「津軽」は志摩清英少将を司令官とする第十九戦隊に編入[35]。第十九戦隊は第四艦隊に所属していた。11月1日に「津軽」は横須賀を出港し、サイパン経由(5日-6日)で11月8日にトラック泊地到着した[35]

「津軽」は太平洋戦争緒戦では南洋部隊のグァム島攻略部隊旗艦として[42]グアム島攻略作戦に従事した[35]。11月22日にトラックを出港して11月24日にサイパンに到着[43]。11月26日にグァム島攻略部隊指揮官の第五根拠地隊司令官が将旗を掲げた[43]。同日サイパンを出港し、11月28日に攻略部隊の集結場所である母島に到着した[43]

攻略部隊は上陸部隊を乗せた船団を護衛して12月4日に母島から出撃[44]。12月10日に上陸が行なわれアメリカ軍は降伏した[45]。「津軽」は陸軍南海支隊の司令部要員と「津軽」陸戦隊を上陸させた[46]。その後、「津軽」陸戦隊を収容しアプラ港に入港[47]。12月12日、攻略部隊司令部は陸上に移った[47]。12月13日、グァム島攻略部隊は解散され「津軽」はハウランド方面攻撃支援隊に加えられた[48]

12月15日から「津軽」と駆逐艦「」はウェーク島攻略に投入される舞鶴第二特別陸戦隊の一個中隊をサイパンからクェゼリンまで輸送し、それからマキンへ向かった[49]。12月22日、マキン(12月10-11日に占領済み)に到着[50]。12月26日、ハウランド方面攻撃支援隊の編成が解かれた[51]。「津軽」は捕虜を収容してヤルートへ移動するよう命じられ、12月28日にヤルートに到着[49]。同日「沖島」とともに出港し[49]1942年(昭和17年)1月1日にトラック泊地に帰投した[35]

1942年1月、ビスマルク諸島攻略作戦が実施となり、R攻略部隊が編成された。R攻略部隊は第十九戦隊の「津軽」、「沖島」や第六水雷戦隊第十八戦隊などからなっていた[52]。このうち、第十九戦隊や第六水雷戦隊からなる本隊はラバウル攻略、第十八戦隊などからなる支隊はカビエン攻略担当であった[53]。1月14日、輸送船団を伴う攻略部隊はグアムを出撃[54]。同日、1月12日にトラックを出港していた「津軽」もこれに合流した[55]。途中で第六水雷戦隊などと合同し、1月22日にラバウル港外に到着[56]。船団の泊地進入時、輸送船「ちゃいな丸」が現れなかったため、「津軽」が捜索に向かうことになっている[57]。ラバウル攻略は成功した。第十九戦隊からも陸戦隊が上陸した[56]。1月30日、空襲で至近弾を受け小破口が生じた[58]。2月1日、R攻略部隊の編制が解かれ、「津軽」、第六水雷戦隊、第八特別根拠地隊などでR方面部隊が編成された[59]

2月20日に「津軽」、第六水雷戦隊などでSR方面攻略部隊が編成され[60]、同部隊はラエサラモア攻略作戦に従事した。3月5日にSR方面攻略部隊はラバウルを出撃し、3月8日にラエとサラモアを攻略した[61]。3月10日、ラエ・サラモアはアメリカの空母「レキシントン」、「ヨークタウン」搭載機による空襲を受け多数の艦船に被害が生じた[62]。2時間の対空戦闘で、「津軽」は12.7cm高角砲弾244発、25mm機銃弾2067発、7.7mm機銃1000発を発砲[63]。命中弾1発と至近弾3発により左舷煙突付近の大破口や舵機故障などの被害が生じ[64]、戦死12名、重傷者3名[63][65]、軽傷者9名を出した[66][注釈 5]。 アメリカ軍機の無線を傍受した越智武雄大尉(航海長)によれば、アメリカ軍は津軽のことを「戦艦」と誤認していたという[67]

3月13日から20日までラバウルで応急修理後、トラック泊地を経由(23日-26日)して4月1日に横須賀到着[35]。修理をおこなった。4月23日、横須賀を出撃して30日にトラック泊地着[35]。翌日出撃し、5月4日にラバウル到着、同日出撃[35]。5月8日の珊瑚海海戦に参加、B-17爆撃機との対空戦闘中に機銃事故で負傷者5名を出した[68]。5月9日にラバウル帰着、11日に出発[35]。5月12日に沈没した「沖島」救援に向かい、志摩司令官は「夕月」より「津軽」に移乗した。 5月19日にトラック泊地に帰着[35]。24日に出発し、5月30日に横須賀到着[35]。修理と整備をおこなった

第八艦隊

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6月18日、横須賀を出発して24日にトラック泊地到着[35]。7月4日から佐世保鎮守府第五特別陸戦隊の一個中隊を運ぶ「野島丸」をラエまで護衛し、7月10日にトラックに戻った[69]。 7月14日、第十六戦隊は解隊され、「津軽」は新偏された第八艦隊に編入されて同艦隊附属となった[70]。7月17日、ラバウルに進出[35]8月7日よりガダルカナル島の戦いがはじまると、「津軽」もショートランド泊地に進出してガダルカナル島への輸送作戦に従事した[35]。9月3日、ガ島輸送従事中に米軍亥の空襲により至近弾を受ける[35]。9月8日から10月10日までラバウルで修理を実施した[35]。その後、再びショートランド泊地に進出し、輸送作戦に従事する[35]

11月30日、津軽艦長は稲垣義龝大佐(横須賀鎮守府附)から高橋一松大佐(初代艦長等を歴任。11月26日まで國洋丸監督官)に交代[71]。稲垣大佐は翌年6月5日附で予備役に編入された[72]

1943年(昭和18年)2月25日、ラバウルで空襲を受けて損傷[35]。3月10日、ラバウルを出発して19日に横須賀到着[35]。修理と整備をおこなった。5月25日、横須賀を出撃、トラック泊地経由(5月30日-6月1日)で6月3日にラバウル到着[35]ラバウルブイン、トラック泊地間の魚雷輸送任務等に従事した[35]。 8月4日、トラック泊地を出撃してラバウルに向かう。8月5日、米潜水艦(シルバーサイズ)から雷撃されて損傷し、6日にラバウル到着[35]。応急修理後の8月31日にラバウルを出発し、9月12日にトラック泊地着[35]。9月12日にトラックを出発、18日に横須賀到着[35]。修理と整備を実施した。 9月20日、津軽艦長は高橋一松大佐から中津成基大佐に交代する[73]。後日、高松は第二護衛船団司令官に任命され[74]松型駆逐艦1番艦「」沈没時に戦死した(スカベンジャー作戦[75]

第三南遣艦隊

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横須賀で修理中の1943年(昭和18年)12月1日附で「津軽」は第三南遣艦隊に編入される[35]。12月3日に横須賀を出発し、12月5日に佐世保到着[35]。輸送物件を搭載し、12月9日に佐世保を出撃する[35]。マニラ経由(13日-19日)で12月22日にシンガポールに到着[35]。 1944年(昭和19年)に入るとシンガポール方面やフィリピン方面での輸送作戦に従事[35]。3月17日から24日までパラオに滞在したあと、バラバック海峡に機雷を敷設した[35]。5月12日、佐世保に帰投[35]

5月28日、機雷600個を搭載して佐世保を出港、スリガオ海峡で機雷を敷設したあと、6月4日にダバオ到着[35]。6月5日にダバオを出発し、6月7日にワシレハルマヘラ島)着[35]ビアク島の戦いに伴う輸送作戦に従事する[35]。陸軍部隊を乗せて6月8日に出発、6月9日にソロンニューギニア島西部)到着[35]。同日出発し、13日にワシレ着[35]。即日出発し、ソロンへ戻る[35]。 6月21日、ソロンを出発[35]。同日、サラワジの泊地で空襲を受けたため避退する途上で米潜水艦ダーターから右舷艦首に魚雷攻撃を受けた。 この被雷で相当な浸水があり津軽は前のめりとなり、戦死2人重軽傷4人の被害があった。 峯風型駆逐艦12番艦「帆風」の支援を受け、6月22日にマリフッド着[35]。現地にて損傷箇所の応急修理を施したが試験航海の結果が思わしくなく、本格的な修理のためフィリピンのキャビテ軍港に回航する事となった。6月28日、ワシレに回航[35]6月29日、フィリピンへ向け駆潜艇2隻の護衛を伴い出港するが、モロタイ水道北口においてダーターの襲撃を受ける[35]。津軽航海長が面舵一杯を取るも応急修理による低速航行だった事からも避けられず被雷した。沈下は止まらず、徐々に艦尾が持ち上がりやがて垂直に直立し、津軽はそのまま艦尾を上にして海中に没した。その直後に爆発があり、津軽から十分に離れていなかった漂流者には水中衝撃で負傷した者が多かったという。

駆潜艇2隻が救助にあたったが重傷者が多く、救助された後にも戦傷が原因で亡くなる者が続出した。 生存者は少なく准士官以上18人、下士官兵287人、傭人3人が戦死した。

既に死亡していた中津大佐は7月10日附で津軽艦長の職務を解かれた[76]。 8月10日、「津軽」は敷設艦[77]、帝国軍艦籍[7]より除かれた。

年譜

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歴代艦長

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※『艦長たちの軍艦史』205-207頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長

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  • 稲垣義龝 大佐:1941年6月20日[38] - 1941年9月10日[40]

艦長

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  • 稲垣義龝 大佐:1941年9月10日[40] - 1942年11月30日[71]
  • 高橋一松 大佐:1942年11月30日[71] - 1943年9月20日[73]
  • 中津成基 大佐:1943年9月20日[73] - 1944年7月20日[76](6月30日戦死、海軍少将に進級)[75]

参考文献

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  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 『日本海軍特務艦船史』 世界の艦船 1997年3月号増刊 第522集(増刊第47集)、海人社、1997年3月。 
  • 寺崎隆治ほか『補助艦艇奮戦記 縁の下の力持ち支援艦艇の全貌と戦場の実情』潮書房光人社、2016年6月。ISBN 978-4-7698-1620-1 
    • 当時「日進」主計長・海軍主計大尉春日紀三夫『水上機母艦「日進」と重火器輸送作戦 ガ島を奪還すべく戦車銃砲や人員輸送に狩り出された異形軍艦の奮戦
    • 戦史研究家伊達久『日本海軍補助艦艇戦歴一覧 水上機母艦、潜水母艦、敷設艦、一等輸送艦、二等輸送艦、敷設艇、電纜敷設艇、哨戒艇、駆潜艇、水雷艇、海防艦、砲艦、特務艦、全三三二隻の太平洋戦争
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年 ISBN 4-7698-1246-9
  • (社)日本造船学会/編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2 
  • 蜂谷京平『海軍機雷兵よもやま物語 敷設艦「津軽」南の海に死す』光人社、1995年 ISBN 4-7698-0704-X
  • 福井静夫 編『-海軍造船技術概要別冊- 海軍艦艇公式図面集』今日の話題社、1987年12月。ISBN 4-87565-212-7 
  • 福井静夫福井静夫著作集第10巻 日本補助艦艇物語』光人社、1993年12月。ISBN 4-7698-0658-2 
  • 福井静夫福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第七巻 日本空母物語』光人社、1996年8月。ISBN 4-7698-0655-8 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。 
  • 牧野茂福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4 
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 第14巻 小艦艇II 敷設艦・敷設艇 特設巡洋艦 二等駆逐艦 魚雷艇・震洋艇 雑務船・内火艇 病院船他/日本海軍作戦年表』光人社、1990年9月。ISBN 4-7698-0464-4 
  • 吉田俊雄『指揮官たちの太平洋戦争 青年士官は何を考え、どうしようとしたか光人社、1984年8月。ISBN 4-7698-0242-0 
  • 「敷設艦 一般計画要領書 附現状調査」。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『南太平洋陸軍作戦<1>ポートモレスビー・ガ島初期作戦』朝雲新聞社、1967年
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで』朝雲新聞社
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    • 『昭和16年12月19日〜昭和17年1月31日 軍艦津軽戦闘詳報 第03.04号(「八」方面攻撃支援.R攻略作戦)(3)』。Ref.C08030756200。 
    • 『昭和16年12月19日〜昭和17年1月31日 軍艦津軽戦闘詳報 第03.04号(「八」方面攻撃支援.R攻略作戦)(4)』。Ref.C08030756300。 
    • 『昭和17年1月24日〜昭和17年1月30日 軍艦津軽戦闘詳報 第05.06.07.08号(R攻略作戦に於ける対空戦闘)』。Ref.C08030756600。 
    • 『昭和17年2月1日〜昭和17年2月20日 軍艦津軽戦闘詳報 第09号(R方面作戦)(1)』。Ref.C08030756900。 
    • 『昭和17年2月1日〜昭和17年2月20日 軍艦津軽戦闘詳報 第09号(R方面作戦)(2)』。Ref.C08030757000。 
    • 『昭和17年2月1日〜昭和17年2月28日 軍艦津軽戦闘詳報 第10.11.12.13号(R方面作戦に於ける対空戦闘)』。Ref.C08030757300。 
    • 『昭和17年2月20日〜昭和17年3月17日 軍艦津軽戦闘詳報 第14号(SR作戦)(1)』。Ref.C08030757600。 
    • 『昭和17年2月20日〜昭和17年3月17日 軍艦津軽戦闘詳報 第14号(SR作戦)(2)』。Ref.C08030757700。 
    • 『昭和17年2月20日〜昭和17年3月17日 軍艦津軽戦闘詳報 第14号(SR作戦)(3)』。Ref.C08030757800。 
    • 『昭和17年2月20日〜昭和17年3月17日 軍艦津軽戦闘詳報 第14号(SR作戦)(4)』。Ref.C08030757900。 
    • 『昭和17年2月20日〜昭和17年3月2日 軍艦津軽戦闘詳報 第15.16.17.18(米国機動部隊に対する戦闘(「セントジョウジ」岬攻略作戦)(1)』。Ref.C08030758200。 
    • 『昭和17年2月20日〜昭和17年3月2日 軍艦津軽戦闘詳報 第15.16.17.18(米国機動部隊に対する戦闘(「セントジョウジ」岬攻略作戦)(2)』。Ref.C08030758200。 
    • 『昭和17年3月10日〜昭和17年3月20日 軍艦津軽戦闘詳報 第19.20.21号(米機動部隊に対する戦闘 対空戦闘)(1)』。Ref.C08030758600。 
    • 『昭和17年3月10日〜昭和17年3月20日 軍艦津軽戦闘詳報 第19.20.21号(米機動部隊に対する戦闘 対空戦闘)(2)』。Ref.C08030758700。 
    • 『昭和17年4月23日〜昭和17年5月11日 軍艦津軽戦闘詳報 第22号(MO作戦(珊瑚海々戦)に於ける作戦)(1)』。Ref.C08030759000。 
    • 『昭和17年4月23日〜昭和17年5月11日 軍艦津軽戦闘詳報 第22号(MO作戦(珊瑚海々戦)に於ける作戦)(2)』。Ref.C08030759100。 
    • 『昭和17年4月23日〜昭和17年5月11日 軍艦津軽戦闘詳報 第22号(MO作戦(珊瑚海々戦)に於ける作戦)(3)』。Ref.C08030759200。 
    • 『昭和17年5月6日〜昭和17年5月12日 軍艦津軽戦闘詳報 第23.24.25.26.27号(MO作戦に於ける対空戦闘RY作戦に於ける作戦)(1)』。Ref.C08030759500。 
    • 『昭和17年5月6日〜昭和17年5月12日 軍艦津軽戦闘詳報 第23.24.25.26.27号(MO作戦に於ける対空戦闘RY作戦に於ける作戦)(2)』。Ref.C08030759600。 
    • 『昭和17年7月21日〜昭和17年8月1日 軍艦津軽戦闘詳報 第30.31.32号(「リ」号研究作戦に於ける対空戦闘)(1)』。Ref.C08030760300。 
    • 『昭和17年7月21日〜昭和17年8月1日 軍艦津軽戦闘詳報 第30.31.32号(「リ」号研究作戦に於ける対空戦闘)(2)』。Ref.C08030760400。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和19年8月31日 第4艦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030018200。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和19年8月31日 第4艦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030018300。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030580700。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和17年1月31日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030066400。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和17年1月31日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030066500。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和17年1月31日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030066600。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和17年1月31日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030066700。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和17年1月31日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030066800。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和17年1月31日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030066900。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和17年1月31日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。Ref.C08030067000。 
    • 『昭和17年2月1日〜昭和17年4月14日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030068100。 
    • 『昭和17年2月1日〜昭和17年4月14日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030068200。 
    • 『昭和17年2月1日〜昭和17年4月14日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030068300。 
    • 『昭和17年2月1日〜昭和17年4月14日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030068400。 
    • 『昭和17年2月1日〜昭和17年4月14日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030068500。 
    • 『昭和17年2月1日〜昭和17年4月14日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030068600。 
    • 『昭和17年2月1日〜昭和17年4月14日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。Ref.C08030068700。 
    • 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030022500。 
    • 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030022600。 
    • 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030022700。 
    • 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030022800。 
    • 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030022900。 
    • 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(6)』。Ref.C08030023000。 
    • 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(7)』。Ref.C08030023100。 
    • 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(8)』。Ref.C08030023200。 
    • 『附表/第1表 海軍陸上部隊(航空部隊を除き被害艦船乗員を含む)兵力表/1.1944年10月18日現在』。Ref.C14061098600。 

脚注

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注釈

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  1. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.500-501による。予算成立時の敷設艦乙の金額は9,750,000円(#戦史叢書31海軍軍戦備1pp.497-498)。10,481,753円は昭和16年度に物価高騰のために追加要求され、議会の協賛を得た(敷設艦乙の)金額。
  2. ^ #昭和造船史1pp.764-795、艦艇要目表では垂線間長113.00mとしている。
  3. ^ #昭和造船史1pp.764-795、艦艇要目表では最大幅を15.58mとしている。
  4. ^ #昭和造船史1pp.764-795、艦艇要目表では六号機雷600個としている。
  5. ^ 戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで、124ページでは戦死11名、重傷4名、軽傷9名

出典

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  1. ^ a b #写真日本の軍艦第14巻p.39の写真解説
  2. ^ a b c d e f g #艦船要目(昭和18年10月)p.30『津輕|敷設艦|118.09|15.52|4.71|4,000|20.0|3|横須賀工廠|昭和14-7-5|昭和15-6-5|昭和16-10-22|12.7c/m…4|―|3|「タルビン」2|艦本式4|2|9,000』
  3. ^ #S15.6.25内令提要原稿/第13類 艦船画像3、艦艇類別等級表『| 敷設艦 | (等級空白) | (艦型空白) | 勝力、常磐、嚴島、白鷹、八重山、沖島、津輕 |』
  4. ^ a b #艦艇類別等級表(昭和15年12月25日)p.3『軍艦|敷設艦|勝力、常磐、嚴島、白鷹、八重山、沖島、津輕』
  5. ^ #S15.6.25内令提要原稿/第13類 艦船画像15、昭和15年6月25日調べ『艦艇、特務艦本籍別一覧表』
  6. ^ a b #戦史叢書31海軍軍戦備1p.506
  7. ^ a b #内令(秘)昭和19年8月(3)p.11『内令第九四三號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 津輕|呉鎮守府在籍 軍艦 飛鷹 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 春雨|呉鎮守府在籍 驅逐艦 谷風|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 白露、驅逐艦 水無月、驅逐艦 松風|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 早波 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 呂號第百十六潜水艦、呂號第百十七潜水艦|呉鎮守府在籍 伊號第三十三潜水艦、呂號第百四潜水艦、呂號第百五潜水艦、呂號第百十四潜水艦|佐世保鎮守府在籍 伊號第百八十三潜水艦、伊號第百八十四潜水艦、伊號第百八十五潜水艦、呂號第百六潜水艦、呂號第百八潜水艦、呂號第百十一潜水艦|舞鶴鎮守府在籍 呂號第三十六潜水艦、呂號第四十二潜水艦、呂號第四十四潜水艦|右帝國潜水艦籍ヨリ除カル|舞鶴鎮守府在籍 第二十四號海防艦 右帝國海防艦ヨリ除カル|佐世保鎮守府在籍 特務艦 塩屋 右帝國特務艦籍ヨリ除カル|昭和十九年八月十日 海軍大臣』
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r #一般計画要領書(敷設艦)p.3、『註.上記計画ノモノハ(以下特記ノ外仝様)昭和十三年十月二十六日艦本機密決第三七九号二依ル計画当初ノモノデ詳細ノ進捗ニ依リ昭和十六年十月八日艦本機密決第四号ノ四六〇ニ依ル決裁当時ノモノヲ示ス』『註.上記現状ハ(以下記載ノモノモ仝様)昭和十七年十一月七日横廠機密工第一八号ノ一ノ四四四二送付ニ依ル要目簿ニ依ル』
  9. ^ a b c d e f g h #一般計画要領書(敷設艦)p.26、津軽重量比較表
  10. ^ #一般計画要領書(敷設艦)p.33、津軽復元性能
  11. ^ a b #昭和造船史1pp.764-795、艦艇要目表
  12. ^ a b c d #一般計画要領書(敷設艦)p.17
  13. ^ #一般計画要領書(敷設艦)p.19、計画。士官19人、特務士官6人、准士官9人、下士官兵380人。
  14. ^ #S16.12.31内令提要原稿巻1/追録/第3類 定員(4)画像10、昭和16年9月19日内令第1083号改定、敷設艦定員表其ノ四。士官19人、特務士官6人、准士官9人、下士官96人、兵282人。
  15. ^ a b c d e f g h #一般計画要領書(敷設艦)p.5
  16. ^ #一般計画要領書(敷設艦)p.7
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  21. ^ a b c #達昭和15年2月pp.44-45『達第三十一號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十三年度及同十四年度ニ於テ建造ニ着手ノ敷設艦一隻、海防艦二隻、驅逐艦二隻、潜水艦二隻及驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十五年二月二十三日 海軍大臣 吉田善吾|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 敷設艦 津輕(ツガル)|鶴見製鐡造船株式會社ニ於テ建造 海防艦 國後(クナシリ)|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 海防艦 八丈(ハチジャウ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 嵐(アラシ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 萩風(ハギカゼ)|三菱重工業株式會社神戸造船所ニ於テ建造 伊號第二十五潜水艦|呉海軍工廠ニ於テ建造 伊號第二十七潜水艦|鶴見製鉄造船株式會社ニ於テ建造 第十三號驅潜艇』
  22. ^ a b c d e f g h #補助艦艇奮戦記172-173頁『津軽(つがる)』
  23. ^ a b #日本補助艦艇物語43-45頁『わが敷設艦の概要』
  24. ^ a b c d e f #写真日本の軍艦第14巻39頁『津軽TSUGARU 上陸戦と輸送に活躍した"津軽"』
  25. ^ a b #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.71『津輕(つがる) 艦種二等巡洋艦 二檣(信號用) 艦名考海峡名なり、津輕海峡に採る。艦歴舊露國軍艦、原名「パルラダ」、明治32年露國「グレルヌイ」島海軍工廠にて進水。同37年2月日露戰役の劈頭、我が驅逐隊襲撃に於て先づ傷き、後ち8月10日の海戰に参加、其の後旅順港内に破壊沈没、同38年1月1日(旅順の露軍降伏開城の日之が収容引揚に着手、同年8月22日帝國軍艦と定め「津輕」と命名。大正9年敷設艦に編入。同11年4月1日除籍。 ―要目― 長 416呎/幅 55呎/喫水 21.0呎/排水量 6,630噸/機關 横置三汽筒三聯成汽罐3基、ベルビル罐24臺/馬力 11,600/速力 20/乗組人員 532/船材 銅(シーズド式)/兵装 15栂砲8 8栂砲12 機砲2 發射管3|起工 明治29/進水 同32-8-28/竣工 同35|建造所 露國グレルヌイ海軍工廠』
  26. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.199『◎戰利軍艦相摸肥前命名ノ件 明治三十八年八月二十二日(達一一一)戰利軍艦「ペレスウエート」外四隻左ノ通命名セラル 戰艦「ペレスウエート」 相摸/戰艦「ポルタワ」 丹後/一等巡洋艦「バヤーン」 阿蘇/二等巡洋艦「ワリヤーグ」 宗谷/二等巡洋艦「パルラダ」 津輕』
  27. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.58『大正九年四月一日(達三八)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 巡洋艦一等ノ欄「阿蘇、」同二等ノ欄内「津輕、」ヲ削ル|海防艦二等ノ欄内「韓崎、駒橋、若宮」ヲ削ル|巡洋艦ノ欄ニ左ノ如ク加フ |航空母艦| |若宮|-|水雷母艦| |韓崎、駒橋|-|敷設艦| |阿蘇、津輕、勝力』
  28. ^ #写真日本の軍艦第14巻10頁(昭和15年沖島写真)
  29. ^ a b c d e f g h i #写真日本の軍艦第14巻35-36頁『◇津軽◇』
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  75. ^ a b 故海軍少将中津成基外二名位階追陞の件 p.4 中津戦死(戦死少将6/30)、高橋一松少将(戦死中将8/4)」 アジア歴史資料センター Ref.A12090532600 
  76. ^ a b 昭和19年7月19日(発令7月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1539号 p.42」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100000 
  77. ^ #内令(秘)昭和19年8月(3)p.9『内令第九三七號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十九年八月十日 海軍大臣|軍艦、航空母艦ノ部中「、飛鷹」ヲ、同敷設艦ノ部中「、津輕」ヲ削ル|驅逐艦、一等神風型ノ項中「、松風」ヲ、同卯月型ノ項中「、水無月」ヲ、同白露型ノ項中「白露、」「、春雨」ヲ、同不知火型ノ項中「、谷風」ヲ、同夕雲型ノ項中「、早波」ヲ削ル(以下略)』

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